2004年2月アーカイブ

ラスト・サムライ

今日は、アカデミー賞授賞式(アメリカは時差でずれるわけだが)。助演男優賞にノミネートされている渡辺謙の出ているラスト・サムライを見てきた。プロデュースおよび主演のトム・クルーズはともかくも、なぜ今、サムライをテーマにするのかというのも気になるところではある。
トム・クルーズが惚れ込んでいたテーマだそうで、いまここで制作する必然的な理由はないのだろうが。おそらく、もしあるとすれば、ハリウッドの作品欠乏症がその大きな理由といったところか。リメーク、しかも、外国映画のリメークまでしようかという。また、原作は広く探している。制作場所も、オーストラリア・ニュージーランド。アイデアの欠乏だけではなく、相当予算カットができるようである。
しばらく前、民放の番組で、アーネスト・サトウの日記をよんだトム・クルーズが惚れ込んで、ラスト・サムライの制作を思いついたのだとか。彼は、サムライに打ち込んでいたのだそうだ。
風景が何となく違う(たとえば、ニュージーランドの羊歯が生える森の中など)とか、時代考証や風景考証がちょっと怪しい感じがするし、地理的な場所が、よく分からない。富士山が見える場所、横浜・東京と主人公の「勝元」の領国がどういう地理的な位置関係にあるのかなど、ともかく、変なところは有るけれど、それは、ともかくも、そして、サムライの哲学(あるいは、人生訓)が繰り返し語られ、滅び行くサムライの美学が描かれ、近代が、すなわち、ストーリーの中に出てくる鉄道とガリントン銃に代表されるそれが、サムライの世界を打ち崩す。作中明治天皇が大きな役割(滅び行くサムライの精神をふまえて日本を近代国家にしようという意思を表明する)を果たすのだが・・・。
この映画は、おそらく、学生世代の日本人にとっても、意外性のある、新鮮なテーマであるかもしれない。その意味で、学生世代の感想を聞いてみたいところである。

「ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還」(シリーズの第三作にして、最終作)を見てきた(原作の「指輪物語」は残念ながらよんだことがないのだが・・・)。とにかく、コンピュータ・グラフィクスなくしては、このシリーズなしといったところであろう。わがアライアンス・プロジェクトはの初期データは、ホビットのバギンズ一族の家系図を元にしたものを使っているので、まんざら無縁でもない。
さて、この映画は友情の物語とか人間の心(欲望)について、描かれているというのだが、その一方、やはり、ハリウッド映画的な西欧中心主義が目につくところである。もちろん、原作そのものが、ヨーロッパの様々な伝説にヒントをえてトルーキンが作り上げた、「サーガ」であるから、西欧中心主義であることはやむを得ないのではあるが。ヨーロッパ世界と思える、「ミッド・ランド」の王として帰還するアラルゴンが中心に描かれる最終作はとりわけその印象が強い。
ホビットは小人であるし、冥界の王のサウロンとその眷属たちの醜さといってない。また、悪と善との境界線を行き来する重要な人物であるゴレム=スメアゴルもそのとおり。美しく描かれるのは、ミッド・ランドのエリートたちといってしまえば身も蓋もないかもしれないが。
なぜ、我々がここにいるのかという「大きな物語」がこのようにコンピュータ・グラフィクスを用いて映画で描かれるというのは、誠に現代なのだが、「大きな物語」もまた、ロール・プレイ・ゲームになってしまうというのも、どんなものか。あくまでも「大きな物語」を矮小化することになり、そして再び、新たな物語を探して旅が始まるというわけではある。

便利な検索エンジン

Digital Gadget(SoftwareDesign 2004/3, by Yukio Andoh)による・・・。
Grokker:検索情報整理ツール
http://www.groxis.com
Beholder:超高速画像検索ツール
http://www.mesadynamics.com/main_beholder.htm
Vivisimo:分類検索エンジン
http://vivisimo.com
Soundflavor:音楽専用の検索エンジン
http://www.soundflavor.com
HyperBee:分散検索エンジンロボット
http://www.hyperbee.com
musicplasma:ミュージシャン専用検索エンジン
http://www.musicplasma.com
Super Search:開発ツールへのGoogleプラグイン
http://weblogs.flamefew.net/moatas/archives/000451.html
eurekster:評価付き検索エンジン
http://www.eurekster.com
Find Sounds:効果音検索サイト
http://www.findsounds.com/
Gigablast:リアルタイム更新する検索エンジン
http://www.gigablast.com/
Kart00:3次元風インターフェースの検索エンジン
http://kart00.com
Melodyhound:鼻歌検索
http://name-this-tune.com/

BSMと名付けている学芸員課程のアニュアルレビューに書いたエッセーを採録しておく。BSMは早いもので9号となる。
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狩猟採集民は環境に優しいか


 私はオーストラリアの先住民アボリジニの調査を始めて、もうかれこれ20年になる。その間、フィールドでスウェーデンの環境学者のグループに出会ったことがある。10年近く前のことである。彼らは、アボリジニの「ブッシュファイア」に注目して研究を始めようとしていた。
 オーストラリア大陸にヨーロッパの人々が植民を始めたのは18世紀末のことだが、それより前に南半球を探査する探検船の記録が未知の大陸(オーストラリア大陸のこと)の様子を記述していて、そのいずれもが、頻繁に煙が上がることを記している。オーストラリアは乾燥した大陸であるから、自然発火によって「ブッシュファイア」が発生することも確かである。しかし、アボリジニたちが頻繁に火をつけていることもまた知られることになる。それは、植民者たちとの軋轢によってである。アボリジニはブッシュに火をつける。植民者たちはその火によって家畜や穀物を失う。そのために、アボリジニたちは目の敵となった。
 たとえば、タスマニア島はコンタクト時には4000名あまりの先住民が生活していたと言われているが、開拓が始まって80年ほどすると、彼らは絶滅させられてしまった。その結果、タスマニアの植生は大きく代わる。疎林であった火成林 は次第に鬱そうと茂るようになっていった。また、草原にも木々が進入し森へと変わってゆく。明らかに彼らの存在がタスマニアの植生を規定していたのである。タスマニアは現在では、豊かな森林資源を誇っている。現在は、日本の商社が森林を買い付け、大規模伐採をおこなって大きな問題となっているのだが、それは、ここでは述べない。
 オーストラリア南西部の都市部では、毎年のように、乾季には住宅地近くにまで「ブッシュファイア」の火が迫り大きな問題になる。この「ブッシュファイア」は、もちろんアボリジニによって起こされたものではなく、自然発火もしくは失火である。また、オーストラリアの各地には乾燥度を知らせ「ブッシュファイア」に気をつけようという大きな掲示板が掲げられる。
 オーストラリアにとって「ブッシュファイア」は歴史的にも環境的にも大きな課題であったのである。スウェーデンの環境学者たちのグループは、ノーザンテリトリーのアボリジニたちのところを訪ねて、彼らの環境利用と「ブッシュファイア」のことについて調べようとしていた。

 オーストラリアの考古学者の故リス・ジョーンズによると、定期的に火入れをおこなうアボリジニの「ブッシュファイア」は焼畑耕作に匹敵するくらい環境を巧妙に操作する手法で、火を用いた耕作(fire-stick farming)であるとしている。ジョーンズ以外にもアボリジニの「ブッシュファイア」についての研究は多いが、最近では、マーシャ・ラングトンのように、環境面に着目するだけではなく、アボリジニのエートスやシンボリズムに注目する研究もある。
 アボリジニたちの火付けは、彼らの清潔観と結びついている。火を入れることで、浄化されるという観念を持っているのである。たとえば、かつては、死者が出たときその住居や村は焼き払われ、人々はその地を去った。また、儀礼などで大勢が集まるとゴミや排泄物などでどうしてもハエが多くなるが、そうした際には、頻繁に儀礼場の周りに火がつけられる。
 また、林の中の見通しが良くなって獲物を見つけやすくなるので狩猟の助けとなるという効果もあったと言われる。
 一方、植物の方の事情として、種子の大きなユーカリは、火による上昇気流で遠くに種子をとばすことができる。根元の植物が焼かれることによって、灰分が肥料となる。あるいは、芽生えが焼かれて単位面積あたりの植物量が減少し、栄養分を独占できる、といった効果を持つといわれている。オーストラリアがユーカリを主体とする植生になっているのは、アボリジニたちの「ブッシュファイア」と無縁ではないとする研究者もいる。
 また、動物たちにしても、たとえば鳥はブッシュファイアの火線の近くを群れ飛んでいる。火に追われた昆虫が飛び立ち、鳥たちにとってはいわば格好のえさ場になるのである。また、カンガルーたちは、火に追われて焼け死ぬのではないかと思われるが、そんなことはない。管理された火(定期的に火が入ること)の場合、炎は大きくならず、十分に逃げ出す余裕があるのである。更に、焼かれた後一雨降ると新芽が芽吹き、疎林の林床は青々として、動物たちもそれをめがけて再び森に戻ってくる。
 定期的に火入れをすることで、森の林床が焼かれ、枯れ葉のような発火材料が残らない。じつは、ユーカリの葉には油分が多く含まれており、殺虫成分も含まれていて微生物によって分解しにくい。したがって、枯れ葉がたまりやすいが、それはある意味危険である。その点、定期的に火が入ることで発火材料が少なくなり、大火にならず、結果的に防火対策となるというのである。最近では、オーストラリア森林管理の手法としてアボリジニに学び、定期的な火付けがおこなわれるようになったという。その結果、安定的な森林生産あるいは森林保護ができるのだという。
 5−6年前、同じ研究仲間の文化地理学の金田章裕先生(京都大学)をお連れして、「ブッシュファイア」ツアーをしたことがあった。金田先生は、ノーザンテリトリーのアーネムランドを訪問するのは初めてとのことで、「ブッシュファイア」が森林管理であることや頻繁な火入れがおこなわれることについて、懐疑的であられた。フィールド各地を訪問して現地の人々にインタビューをし、「ブッシュファイア」を遠望できる高台に数日間キャンプするうちに、納得して頂けたようである。
 アボリジニたちは一年に何回もブッシュに火を放ち、森を焼き払う。そのことで彼らは自らの領地を管理しているようである。私は、友人のアボリジニ・アーティストのトンプソン・イルジリ老人につれられて、彼の故地を訪ねたことがある。トンプソンは帰り際に草原に火を放ち、「これできれいになった」と安心したようにつぶやいたことをみている。

 オーストラリアでフィールドワークをしていると、アボリジニに惚れ込んでいる人々に出会うことがある。彼は一様に「アボリジニたちは自然と共に生きている」というのである。確かに彼らはいまだに自然の実りを口にする部分が大きい。自然に対して手を加えることは少ないかに見えるが、はたしてどうであろうか。すでに述べたように、彼らは明らかに森に火を放ちそのことによって森を管理している。ブッシュに火をつけることは、大気中の二酸化炭素濃度を増やすことにつながる。したがって、昨今の地球温暖化論議からしても、まさに環境破壊である。もっとも、狩猟採集民や焼畑耕作民の火によって増加する二酸化炭素放出量よりも、工場や発電所、塵埃処理のためのそれの方が遙かに多いだろうが。
 しかし、考えてみると人間はそもそも環境を破壊してしか生きていけない動物なのではないか。出アフリカ以来、人間が到着した新しい土地から次々と大型動物が消滅している。オーストラリアでもディプロトドンなどの大型の動物は、人間が大陸にやってきた後に絶滅した。環境に手を加えて単一の植物種のみを栽培する農業もその最たるものである。人間のなんと業深いことか。

2003年5月17日に「飛騨・世界生活文化センター」(http://www.hida-center.or.jp/)で第6回企画展「夢に生きる:オーストラリア・アボリジニの世界」のオープニング記念で恩師の小山修三先生とともに開所記念講演を行った。図録にエッセーを寄せたが、構成の都合で若干オリジナルとは異なって掲載したので、以下は、オリジナルバージョンを掲載しておく。なお、文中の括弧付きの数字は脚注を表す。また、作品番号とあるのは、企画展で展示された飛騨・世界文化センター所蔵作品である。
20030517
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アボリジニ芸術と作家活動:現代に生きるドリーミング


「人間が本当に求めているのは<今生きているという経験>だとわたしは思います。・・・(中略)・・・私たち自身のうちのそういう喜びを見いだす助けとしてこれら神話 のかぎがあるのです。・・・(中略)・・・神話(1) は、人間生活の精神的な可能性を探るかぎです。・・・(中略)・・・< 今生きているという経験(2)を得るには、 神話を読むことです。神話はあなたに、自己の内面に向かうことができるのだ、と教えてくれます。そのおかげであなたは象徴のメッセージを受け始めるのです。・・・(中略)・・・神話のおかげでようやく、いま生きているという経験と関わることができる。それがどんな経験かを、神話は語ってくれます。」
[ジョーセフ・キャンベル『神話の力』早川書房(1992年)より抜粋]

岩壁画のギャラリー・インジャラク山: ボビー・ガインミラ

 西アーネムランドにあるオーエンペリ(3)のマチの東には広々としたビラボン(4)が広がり、雨季には満々と水をたたえている。乾季のさなかでも水がなくなることはない(5)。ペリカンが飛び交い、群れで漁をするのが見える。その向こうに見える山がインジャラクである。  インジャラク山はかつて周辺の人々の雨季のすみかであり、その生活痕が今も見られ、無数の岩壁画が残されていることでも知られる。筆者はこれまで、1984年に故ボビー・ガインミラ(Bobby Ngainmirra, c.1915-1992, 以下ボビー)、1993年にトンプソン・イルジリ(Thompson Yirrdjirri, c.1930-, 以下トンプソン)、それぞれオーエンペリを代表する作家の案内で岩壁画のギャラリーを巡ったことがある。

 1984年10月ごろだっただろうか。フィールド調査の中休みをノーザンテリトリーの首都ダーウィンですごしたわれわれ(小山修三さん、松山利夫さんと筆者)は、ふたたび、調査地のアーネムランドへと四輪駆動車をはしらせていた。しかし、どういうはずみか何の変哲もない舗装路でパンクしてしまい、タイア交換をした。悪路をはしるので普通はスペア・タイヤを2本もってアクシデントに備えるのだが、すでにスペア・タイヤの1本はアボリジニの友人に貸してあって、困ったことにスペアなしで本格的な悪路にむかうはめになってしまったのだ。
 小山さんは、この際だからタイア修理を名目にして途中にあるオーエンペリにいこうという。ついでに、うまくいけばインジャラクという岩山にいって岩壁画をみることができるだろうという。アーネムランド・アボリジニ領では入域許可の出ているところだけしか立ち寄ってはいけないというのが決まりである。われわれの許可条件はマニングリダ(6)への入域だけとなっており、途中のマチに立ち寄ることは、本来ゆるされていない。
 車をマチはずれにあるガソリン・スタンドにいれ、タイヤ修理を依頼する。時間がかかるといわれたわれわれは、もっけのさいわいと付近を歩き回った。スタンドの隣にはスーパー・マーケット、向かいには金網に囲まれたバーがあった(7)。アーネムランドのマチは基本的に禁酒もしくは限定的な飲酒であり、オーエンペリの場合、かぎられた場所(金網のなか)でなら飲める。だいぶ酔っぱらいが出ているようで、金網の外にたむろしている男たちも千鳥足だ。
 「コヤマ」。道をふらふらとあるいていた酔っぱらいから突然声がかかる。小柄な老人だ。小山さんは「ボビー」と叫んで、近付いていった。男は顔をくしゃくしゃにして抱きついてくる。涙声だ。われわれの方へもやってきて、久しぶりだなという。「いや、はじめて会う」といっても信用しない。「この前きたじゃないか」といわれ、抱きつかれてしまった。小山さんは以前、民博(8)の海外収集でこのマチにきたときに会ったらしい。ボビーは著名な作家のひとりとしてしられ、彼の樹皮画は小山さんの手ですでに収集されていて、われわれもなじみが深い。ボビーは特徴的なミミをはじめとする精霊を描くことでしられる(9)
 小山さんはしきりにインジャラク山に案内するよういっている。やがて、ボビーは、「山は聖地でもあるので、案内できない場所もあるから、とにかく、あとを離れるな」という条件で案内を引き受けた。岩山の標高は100メートルくらいのものか。麓まで車でいき、そこで車をおいて登る。しばらく登ると水場がある。さらにすすむと岩がオーバーハングしている場所にでる。そこには焚火跡があってかつて住居だったらしい。付近からはビラボンを隔ててオーエンペリのマチをみはらすことができた。
OverhangTerace
 住居跡からオーバーハングの回廊をたどってさらに奥にはいると、1.5メートルほどの高さの天井部分に一面に岩壁画が描かれていた。いわゆるレントゲン画法(10)タイプのものがほとんどである。バラマンディやクビナガガメ、カンガルーなどが描かれる。顔料を手の上から吹き付けて描いた「手形」もある。足元には所々に直径10センチばかりの岩の窪みがある。それは雨の滴りによって穿たれたように見える、あやかな窪みなのだが、ボビーたちや彼等の祖先が代々同じ場所で顔料をといた「硯」なのだ。
Boby'sKangaroo
 感激して写真をとっているわれわれをうながして、ボビーは、さらに奥にある切り通しに案内した。オーバーハングは終り、空が見える。ボビーの指さす先をみると、岩壁には大きなカンガルーが見えた。自分がこのカンガルーを描き、これが最後の岩壁画 (11)だという。
 わたしは、インジャラクの岩壁画についても、フランス・ラスコー有名な洞窟画ではないが、古代の人びとによって描かれたように錯覚していた。ボビーのカンガルーの絵もかなり古びていたので、当然のこととしてそのように思いこんでいだ。しかし、遙か昔に制作されたと思った岩壁画が、実は、50年ばかり前に描かれ、その作家に直接話が聞けるとは思えなかった。現在と過去が隣り合わせにあるかれらのいう「ドリーミング」あるいは「ドリーム・タイム」という言葉が何となく実感された。Thompson&Oenpeli
 二度目にインジャラク山に登ったのは、1993年で、ボビーに案内されてから、10年を経ていた。案内人は、やはりアボリジニ画家のトンプソンである。山に登る前、「是非ボビーのカンガルーのところに案内してほしい」とたのんでいたのだが、トンプソン老人は、「知らない」と言う。トンプソンによれば、彼も含めて岩壁画を書いた作家を知らないという。奇妙だ。
 じつは、彼の案内するルートが、ボビーの時と違っていたのである。10年を経ていたので、記憶があまり鮮明ではないが、しかし、見たことのない岩壁画が続く。そういえば、ボビーは、聖地だから自分が案内するところ以外には行くなと言っていた。ボビーとトンプソン、彼らのクランは違う。神話もドリーミングも違う。案内人によって行く場所が違うのかもしれない。おそらく、重複もあるのだろうが。
 トンプソンの案内した岩壁画で興味深かったのは、地母神イガナである。イガナは、赤っぽい顔料で絵が描かれ、トンボのような目と棒のような体と手足、そして、首から提げる、たくさんの袋である。この袋の中には、命の種が入っていて、イガナはアーネムランドを旅しながら、生命の種をまいていったのだそうだ。

地母神イガナの神話:ピーター・ナバルランバル

Earth Mother ピーター・ナバルランバル(Peter Nabarlanbarl、c.1930-、以下ピーター)は、トンプソンと違い、アートセンターにほとんど現れない作家だ。私も一度しかみかけたことがない。彼の作風は、ロフティ・ナジャメレク(Logty Njamerk, c.1926-)ら少数の作家と並んで、独特のハッチングを用い、特徴ある作品を描く。多くの作家が、水彩画用紙に絵画を描く方が多いインジャラク・アートセンターの中では、ユーカリの樹皮に描くことを好む作家である。彼らのハッチングの様式は、繊細さと言うよりも、力強さが感じられないだろうか(作品番号:39:飛騨・世界文化センター所蔵)。

Peter Nabarrlanbarr ドリーム・タイム、地母神であるニジヘビ(12)のイガナは、胎内に半人間や、半動物、半鳥、半魚など、たくさんの生き物たちを宿して、はるか海の向こうから西アーネムランドの海岸にやってきた。彼女は大地を横切りながら、様々な場所で命をまき散らしていった。そして、旅を進めるうちに、岩や丘や木々に聖地としての名前を与えていった。
 ある時、イガナは自分の周りにある奇妙な形をしたものたちに満足せず、自分が生み出したこれらのものたちを飲み込み、我々が現在目にする形へと整えた。また、イガナは腹に二個の卵をはぐくんでいた。時満ちて、彼女は息子のガリョドと娘のガルクンブリヤミに生を授けた。これらのものたちで最も重要なものはガリョドである。このものは母に伴い西アーネムランドを旅し、ある時は大地の上に、またあるときは川や本土とは隔たった珊瑚礁の上に、たくさんの聖地を作り出していった。娘のガルクンブリヤミも、淡水のビラボン(泉、あるいは湿地帯)にすんでいた彼女は、すみかの「ニンブワ」岩の周辺の多くの聖地に名付けていった。Ninbuwa Rock
 ガリョドは乾季と雨季の季節の支配者となった。ひとたび彼が怒ると、大気に湿り気を送りこみ、嵐を呼ぶ雲を呼んだ。二またに分かれた舌でその雲を突き刺すと、大地に洪水をもたらす豪雨をふらした。洪水の犠牲となったものたちを飲み込むことはたやすいことであった。

 ピーターの絵には、二匹のニジヘビが精霊ミミを守るように描かれる。ミミは、今もニンブワ岩のような岩陰やユーカリの林の中にある聖地に今もすんでいるという。ミミは人間が地上に現れるより以前から大地に暮らし、ニジヘビによって生み出された。人間に狩りや様々な生きるための技術を教えてくれた存在である。
 アボリジニたちの話には、時間についての感じ方が違うと思わされることが多い。たとえば、ドリーム・タイムである。ピーターの絵に描かれる地母神イガナや造物主ニジヘビ、森に住むミミなど、神話の登場人物が語られるとき、彼らは、ドリーム・タイムという言葉で、その時代を語る。我々のイメージでは、歴史以前のことであると思いがちであるが、話の流れではすぐ昨日や一昨日起きたことのようなニュアンスで話すのである。単に、文法上の問題とは思えない。
 考えてみると、彼らの語る神話、すなわちドリーム・タイムの話は、彼らがすべて見知っているきわめて具体的な世界なのである。指さすあの先の岩にはミミが今も住んでいるし、あの岩山にはニジヘビが今も住んでいる。

生きる神話・語る神話:トンプソン・イルジリ

 インジャラク山を案内してくれたトンプソンと最初に出会ったのは、1993年、オーエンペリにあるインジャラク・アートセンター(後述)の工房であった。かれは、年齢の離れた若い作家たちに混じって、こつこつと絵を描き続けるのが印象的であった。彼の年配の作家たちは、どちらかというと、ピーターのように、自分の家や遠くの村で作品を仕上げ、アートセンターの買い上げを待っている。しかし、トンプソンの場合は違う。工房に出かけてくるのだ。私は、そのおかげで、彼からくり返し話を聞くことができた。  トンプソンが好んで描くテーマのひとつに「泣き虫坊やの物語」がある。その話を聞いてみると、物語の中に登場するニジヘビが今もいるというのである。彼がかつて住んでいた「カントリー 」(13)のカバリ(地名)がそこだという。そもそも、絵として描く物語にはすべて具体的な場所があると語り、わたしは、そうした場所にぜひ出かけてみたいと思っていた。  カバリまではオーエンペリから車で二時間の行程だが、最後の一時間ほど、轍をたどる。四輪駆動車にしても厳しい小道だった。岩壁にそって湾曲する川の流れのある小盆地がトンプソンの故地カバリである。トンプソンは、かつての住居跡だという場所に車を止めさせると、「泣き虫坊やの物語」の「現場」に連れて行ってくれた。  強い日差しのなか、河原を歩く。右手正面の岩壁には、黒い染みがあって、物語のなかの生きのびた村人と二頭の犬が、今も張り付いているのだという。言われてよく見るとそのように見えないこともない。川の浅瀬を渡り、岩壁の直下に来たとき、トンプソンはもう一度話を始めた。

「泣き虫坊やの物語」

 これはむかしむかしこのあたりであった話だ。この話は父から聞いたが、父はその父から、祖父はまたその父から聞いたものだ。
 カバリのあたりにビニン(14)のある一族が住んでいた。そのなかに兄弟がいて、かれらは孤児だった。兄弟の名前は父から聞くのを忘れてしまった。さて、弟はいつも腹を減らせて、泣いてばかりいた。兄は弟のために狩りに出かけたのだが、何日も獲物がなかった。同じキャンプに住む人びとも、この弟があまり泣き続けるものだから、困ってますます食べ物をやらなくなった。
 それで、あんまり弟が泣くものだから、兄は弟の手を引いてマイバレムという名前の特別な木のところにつれていった。その木の葉っぱの陰にはいつもヘビが巣くっていたのだが、取ってはいけないとされていたのだ。でも、兄は弟に、いいから取りなさい、といった。弟は言うとおりにヘビをつかんだ。
 するとどうだ。そのヘビはニジヘビだったのだ。小さなヘビはどんどん大きくなって、兄弟を追いかけてきた。兄弟は逃げに逃げた。その後を追いかけてニジヘビは兄弟の住むキャンプにやってきて、そこで儀礼をしていた人びとも、兄弟も、みんな飲み込んでしまった。
 ただ、飼われていた二匹の犬だけが、キャンプから逃げ出したのだ。また、キャンプの人たちの中で、岩山の方に狩りにいっていた人たちは食べられなかった。ニャライチとい岩に張り付いて逃れたのだよ。ほら、あれだよ。
 本当は、この兄は、魔術師だったと思うよ。キャンプの誰も食べ物を与えないからその仕返しにニジヘビを呼んで、人びとをこらしめたのだろう。弟の岩はこれだ。上半身だけだが。兄の岩はほら上にある。
 ニジヘビはというと、みんなをこらしめおえると、「さあこれでおしまい」と、岩になってしまった。兄の岩の左の方にこちらのほうに顔をのぞかせているだろう。あれがそうだ。

 トンプソンの絵の中央には、「ニジヘビ」がとぐろを巻く姿で描かれる(あるいは、長く横たわって描かれる場合もある)。トンプソンの描く「物語」のニジヘビの体内には、飲み込まれた人びとの姿や物語の発端となる木に引っかかっている小さなヘビとそれを取ろうとしている兄弟も描かれる。また、儀礼をしている人びとの姿や、岩山に逃れて生き延びた人びとと二頭の犬が描かれる。Crying Orphan Rock
 トンプソンが指さす岩壁の突き出した岩は、ニジヘビが鎌首をもたげた姿に見えなくもない。しかし、兄が変身したという岩は、高さが二メートルばかりで人間の姿には見えないし、泣き虫の弟の岩は、ほんの三〇センチほどの高さしかない。
 聞き手である私にはそのリアリティは伝わりにくいが、トンプソンの話ぶりは、アートセンターで最初に話を聞いたときよりも熱がこもり、かれにとって絵に描く物語が今も生きている事が伝わってくる。まさに、絵空事ではなく、かれらにとって、リアリティを持った物語であるらしい。
 帰路、トンプソンはカバリの小盆地の中央まで来たとき、「火をよこせ」といった。たばこを吸うのかと思ってライターを渡したら、「止まれ」という。かれは、車を降りるなり、草原に火をつけた。火をつけた場所が左後輪のすぐ脇だったし、乾ききった草は大きな炎をあげ、大慌てで車を出す騒ぎとなった。車に乗り込んできたトンプソンは、「いいところだろう、これできれいになった、また、ここにこよう」といった。

アートセンター:アボリジニ芸術が生み出される現場

 現代芸術の世界では市場とアーティストの接点はギャラリー(画廊)やオークションであろうか。しかし、アボリジニの世界では「アートセンター」の位置づけは大きい。では、これまでにとりあげた、ボビーやピーター、トンプソンといった画家たちが関わる、アートセンターとは何だろうか。  トンプソンは、オーエンペリというアボリジニのマチに住んでいる。このマチは、アボリジニ領の中にあって、許可証を持った者(日帰りの旅行者もふくむ)以外の訪問は許可されていない。アボリジニ領から外に出ることは、滅多にない、たいがいは、アートセンターに通ってきて、作品を仕上げている。彼の話す英語は流ちょうではないし、白人のアートセンター・マネージャーの潜在は大きい。かれは、プロモーターであり、センターのマネージャーであり、トンプソンらのような何知られた作家にとっては、展覧会などの時の個人的なマネージャーでもあるのである。  オーエンペリのマチのアーティストは、岩壁画のある山の名前にちなんでつけられたインジャラク・アートセンターの工房に毎日通ってくる。ただし、どちらかというと、若手の30歳以下の作家の方が多い。トンプソンは例外的である。locaal artist  インジャラク山にビラボンを隔てて建築された「インジャラク・アートセンター」は、1989年に創立されたのだが、その成立年代は、アーネムランドのほかのマチのアートセンターと比べて、必ずしも早くない。しかし、他のマチのアートセンターとは違って工房施設を1992年に立ち上げ、アーティストが通ってきて制作するというシステムを作ったことが大きな意味をもっている。オーエンペリは、隣接するカカドゥ国立公園との境界からわずか数十キロの距離にある。カカドゥにやってくるツーリストが土産物とした持ち帰ることができるくらいの小品を工房で大量に作り出すことができるのである。  また、アートセンターには日帰り入域が許可された観光客が毎日のようにやってきて、アーティストの制作風景をみることができる。アーネムランドのほかのセンターは、そうはいかない。地理的な問題で、ごくまれな日帰り観光客は往復の高額な航空運賃を支払わなくてはならない。まさに、地の利を考慮した工夫であったと見ることができよう。tourism  インジャラク・アートセンターは水彩画用紙に岩壁画にも使用される伝統的な顔料を用いて描く絵画、そして、シルクスクリーン手法による絵画の制作をするという他のセンターにない特徴も持っている。もっとも、水彩画用紙やシルクスクリーンによる絵画は、その後、各地で生産されるようになり、かなり一般的となってしまった。  もともと、アーネムランドの絵画は、ユーカリの樹皮をはぎ取り、平らにしてそれを「キャンバス」として描く樹皮画で知られる。とりわけオーエンペリの付近はアーネムランドのなかで白人社会との接触が比較的早かった地域で、樹皮画が見いだされた土地としても知られる。19世紀末から20世紀初頭のころ、オーエンペリ建設以前から付近で活躍したケイヒル(15)や人類学的調査(1912年)を行ったスペンサーらが、すでに、岩壁に描かれる岩壁画をユーカリの樹皮に写させ南方の主要都市に送り出していたという。  しかし、樹皮画はかならずしも新たに作り出されたというわけではなく、そもそも住居の屋根材や壁材のユーカリの樹皮に岩壁画と同様の顔料を用いた絵画が描かれていたという。その後、岩壁画は描きつがれることはなくなったようだが、いずれにしても、オーエンペリ周辺のアボリジニたちは、白人社会との接触以来様ざまなマーケットに向けて、樹皮画を制作してきたのである。トンプソン自身も若い頃は牧場で働いたり、木を切る仕事をしたりしていたが、知り合った白人のすすめで、やがては樹皮画を描くようになったという。  アートセンターができるまで、アボリジニたちがその販売に直接関わることはなかった。オーエンペリの樹皮画を南の都市部に売り出していたのは、学校関係者のルート、駐在していた元警察官のルート、白人行政官のルート、首都ダーウィン市などのギャラリー・ルートといった複数の販路であった。アーティストたちはそれぞれを通じて樹皮画を販売して現金収入としていたようである。実は、こうした販路はアートセンターができた現在も共存している。  アボリジニたちが芸術作品を制作してゆくようになったのは、かれらが資本主義的現金経済のもとで生産手段を持たない狩猟採集民であったことが最大の理由である。自然のみのりをそのまま享受するという生活様式のままでは、様ざまな物質文化の侵入という状況の下で、生活原資となる現金を得ることは難しい。かれらの主な収入は自治体や学校で職を得た少数が受け取る給与を除いて、CDEP(コミュニティ開発雇用プロジェクト)といういわば失業対策事業費の受給か、失業手当等の社会保障金の受給のほか、芸術作品の制作が非常に重要な意味を持っているのである(16)。  オーエンペリ周辺の作家たちは、自らが出品した展覧会などに出かけていくほかは、基本的に、この地を離れることは、まずない。たとえば、日本の地方作家が何かの賞を取ったことをきっかけとして、画廊が多く仕事のチャンスの多い東京に転出していくといった状況は、まず起こらない。作家たちの地元志向の強さ(17)は非常に強い。それが故に、地元に密着しながら作家たちの作品を買い上げて作家活動をプロモートしていくアートセンターの機能は非常に重要である。こうした状況は、特殊オーエンペリのものではなく、アボリジニたちの作品を送り出す役割を持っているアートセンターの存在は、アボリジニ芸術世界の中で大きな意味を持っているのである(18)。  アートセンターで働くマーケッターでありプロモーターとしてのマネージャーの役割は大きい。彼らの多くは、かならずしもアートやマーケッティングの専門家ではなく、様々な経歴を持っているが、その多くは、ヨーロッパ系の出自を持つものが多い。彼らはアボリジニ・コミュニティにやってきて、コミュニティとつきあい、作家たちの要求を聞き、また、展覧会を企画し、都市部の画廊や美術館からの出品要請にこたえ、また、作品を販売する。作家や作品に関する資料を用意し、作品に添付しなければならない。大変なハードワークである。私が知っているだけでも、たいがいのマネージャーは、きっかけは様々であるが、せいぜい3−4年で代わっていくことが多い。  うまい具合に交代してアートセンターの運営が継続できればよいが、時として、事業の中断が起こる。また、マネージャーの好みや都市部とのコネクションによって、かなり、趣向が変わることもある。インジャラク・アートセンターは発足以来(1989年から2003年まで)、マネージャーは5代を数える。やめていった動機は様々であるにもかかわらず、また、マネージャーの頻繁な交代にもかかわらずかなり一貫したポリシーで運営されているのは、むしろまれなケースであろう。

アボリジニの芸術:ノーザンテリトリーを中心に

 オーエンペリを含む中央アーネムランドから西の領域で描かれる絵画(樹皮画であれ水彩画用紙に書かれるものであれ)の特徴は、神話や世俗的な物語などの内容やワニや鳥など、具体的なモチーフを描き、背景色を単色で描くというものである。たとえば、本展覧会で展示される作品で言えば、ピーター・ナバルランバルの作品である(作品番号:39)。赤褐色の背景に、主題となるニジヘビや精霊のミミを描く。主たるモチーフは背景の中で浮かび上がることになる。背景色としては、白色や黒色が使われることもある。  一方、アーネムランドのほかの地域の作品は、まるで「空間恐怖 」(19)のように、主題となるモチーフだけではなく、背景部分も含めて、余白なく様々な文様で埋めてゆく。たとえば、ジョージ・ミルプルル(George Milpurrurru, 1934-1998)の作品(作品番号:24)を見ればよい。これは、おそらくモーニング・スター)(20)の儀礼を描いたものであるが、中央には儀礼の際の重要な祭具であるモーニング・スター・ポールが描かれ、その周りは、様々な仕草の人々で埋め尽くされる。そして、さらにその背後には、細かな斜線(ハッチング)で埋め尽くされる。作品番号25-30は同様の描法である。また、西アーネムランドの絵画表現で興味深いスタイルにまるで漫画のこま割りのように物語の流れが書き込まれるものがある。アーネムランドは面積としては、北海道と四国を足したくらいのものであるが、その東西には印象の異なる描法が見られるのである。  また、この地域には絵画のほかの作品としては、彫刻と棺(作品番号:31-34)が特徴的である。彫刻は元々儀礼の際に用いられる鳥や魚(作品番号:17,18,22,27,38)のほか精霊のミミ(作品番号:35-37)が見られる。いずれも、地域によって、背景色が異なっていたり、文様のハッチングパターンが異なっていたりする。  ノーザンテリトリーの首都ダーウィンの北方に位置するメルビル・バサースト両島に居住するティウィたちの芸術も非常に特徴的である。彼らの作品には具象があまり見られない。抽象的なパターンの組み合わせによってモチーフが形作られる(作品番号:3-8)。また、プカマニ・ポール(21)と呼ばれる墓標 (作品番号:9-14)がよく知られている。これは、アイアン・ウッドという非常に硬質な材を用いて彫刻され彫刻彩色されるもので、鉄器の導入ととともにその表現スタイルが大きく変化したと言われている。  オーストラリア北岸のノーザンテリトリーの西端、西オーストラリア州との境界地域にあるキンバリー地方にはほかの地域では見られない儀礼の際に用いられる頭飾りが有名である。また、現代絵画では、ローバー・トーマス(Rover Thomas,c.1926-1998 )(作品番号:60)の抽象度の高い完成された作品が非常に新鮮である。かれは、キンバリーの伝統とは離れ、非常に特徴的な描法を生み出したのである。彼の亡き後、彼の一族のものたちは、類似したモチーフの作品を量産するようになったが、しかし、そのパワーは失せていない。アボリジニ芸術の中でも、非常に印象の強いグループであろう。Rover Thomas  ノーザンテリトリーの芸術で、もう一つのセンターは中央砂漠であろう。典型的には小さなドットで描かれるまるで色覚検査用紙のようにみえる砂絵あるいはドット・ペインティング (22)(作品番号:43-58)やインドネシアのバティック(ろうけつ染め)の技術を導入して始められたアーナベラやユートピアにおける女性の作品がある。また、アルバート・ナマチラ(Albert Namatjira, 1902 ミ 1959)に始まるハーマンスブルグの水彩画もよく知られている。ハーマンスブルグでは、さらに、現在では陶芸作品も見られるようになってきている(作品番号:59、62)。そして、中央砂漠の作家の中で忘れてならないのは、エミリー・クンワレエ(Emily Kame Kngwarreye,1910 ミ 1996)の存在であろう。彼女の作品は、初期にはドットを用いた表現が見られるが、やがては、パワフルな自在な色彩を用いたもはやドット・ペインティングの範疇やアボリジニ芸術ではとらえられないような作風となったのである。

 アボリジニ芸術を網羅的に述べることは不可能であるが、最後に、都市のアボリジニ芸術について触れておきたい(23)
 その一例としてリン・オナス(Lin Onus, 1948-1996)をとりあげておきたい(ネットでの情報は、 。メルボルンにスコットランド人の母とビクトリア州のヨルタヨルタ・アボリジニを父として生まれたかれは、1974年に絵を描き始め、1977年に最初の個展を開く。1986年にアーネムランドを訪れ、インパクトを受けた彼はその作風を一変させる。すなわち、アボリジニの伝統と現代的表現を組み合わせた作品を発表し始めたのである。たとえば、中央アーネムランドの作家のジャック・ウヌウン (24)(Jack Wunuwun, 1930-1990)の作風をまねてキャンバスいっぱいに蝶や山芋の蔓や葉をえがき、その左半分に、あぐらをくんで座るジャック・ウヌウン自身を写実的に描いた作品がある。
 また、オーストラリアに分布する野生犬のディンゴの一家を造形し、その体色を赤・白・黒・茶の樹皮画の色彩コンビネーションを用いて縞模様に描いた「ディンゴ」シリーズがある。その中の作品に、「ディンゴ・プルーフ・フェンス」と「トラップ」(いずれも、1989年)がある。前者は、四色に彩色されたディンゴが金網を突き抜けている作品で、後者は、罠にかかって倒れているディンゴである。この作品によってリン・オナスが描こうとしたのは、アボリジニの現在である。樹皮画の伝統色に彩色されたディンゴはアボリジニそのものであり、金網を突き抜け、罠にとらえられているディンゴは、アボリジニの政治的経済的文化的状況を表現したものなのである。
 私たちは、アボリジニ芸術の持つ色彩豊かな、イマジネーションあふれた、また、神話的世界と直結するパワフルな作風を堪能するとともに、彼らのおかれている状況にも想いをはせる必要があるのである。

脚注

(1)下線部は杉藤が補足。戻る
(2) 同上。戻る
(3)オーエンペリはノーザンテリトリーの東北部にあるアーネムランド・アボリジニ領の西端にあるマチで、1925年、CMS(キリスト教宣教団)により建設された[Cole 1972:48-51] 。1994年の人口は760人 [Jabiru Regional Council 1997:26] であった。ユネスコによる世界自然遺産・文化遺産指定地のカカドゥ国立公園に接している。戻る
(4)ビラボンはオーストラリア英語にされたアボリジニの言葉のひとつで、泉や湿原を指す。戻る
(5)雨季は11月から3月、乾季は4月から10月で年間降雨量は1500mmを超え、そのほとんどが雨季に見られる。戻る
(6)中央アーネムランドにあるアボリジニのまち。戻る
(7)1984年当時の位置。戻る
(8)国立民族学博物館(大阪府吹田市)。戻る
(9)彼の一族のピーターソン・ガインミラの作品が今回展示されている(作品番号:41)。戻る
(10)レントゲン画法とは、モチーフの精霊や動物を骨や内臓が透けて見えるように描く西アーネムランドに特徴的な描法である。戻る
(11)1930年代の制作といわれている。戻る
(12)ニジヘビはアーネムランドで描かれる絵画の主や題のひとつで、地形や人々の由来に関わる造物主とされる。戻る
(13)「カントリー」とは、アボリジニ英語のひとつで「アボリジニの個人もしくはコミュニティが責任を持っている土地の広がり」[Arthur 1996:119]をさしている。戻る
(14)西アーネムランドのアボリジニの言語のひとつであるクニング語で「人間」を意味する。戻る
(15)Paddy Cahill。一八八〇年代には現在のオーエンペリ付近でバッファロー狩りツアーや牧場建設を試みた。カカドゥ国立公園との接点の渡河点ケイヒル・クロッシングにその名を残している。戻る
(16)芸術作品と土産物の政策のアボリジニ・コミュニティにおける重要性については様ざまな文献がふれているところである[Peterson & Matsuyama 1991][Altman & Taylor 1990]。また、アートセンターの役割の重要性についてはライトらの報告[Wright 1999][Wright & Morphy 1999]に見ることができる。戻る
(17)実は、オーストラリア社会の持っているアボリジニに対する差別構造に関連があるのであるが。戻る
(18)本図録、○○ページを参照されたい。戻る
(19)余白をおそれすべてを埋め尽くす。戻る
(20)明けの明星。戻る
(21)埋葬した遺体を取り囲むようにたてられる。戻る
(22)砂絵(サンド・ペインティング)といっても、元々は砂の上に造形がなされたが、現在の砂絵は、キャンバスやボードの上にアクリル絵の具で描かれる。ドット・ペインティングとも言われる。戻る
(23)Margo Neal, 2000, "Urban Dingo : the art and life of Lin Onus 1948-1996", Queenslad Art Galleryを参考にした。戻る
(24)ジャック・ウヌウンは、中央アーネムランドのマニングリダ及びがまディ・アウトステーションで活躍した作家で、1986年には神戸市立博物館の招きで特別展期間中に訪れ、その制作風景を公開した。作風は、中央アーネムランドの作家の中でもある意味で非常に写実的で、自在な自然物の表現に特徴がある。戻る

2003年7月から11月にかけて開催されたアボリジニ現代美術展「精霊たちのふるさと」にエッセーを寄せたので、採録しておく。この美術展はオーストラリア大使館のオーストラリア芸術祭「Ancient Future」の企画のひとつである。そのウェッブページは、http://ancientfuture.australia.or.jp/jpn/events/event_pages/event_1.php
である。3カ所で開催され、その情報は、以下の通りである。
7月20日−9月7日:越後松之山「森の学校」キョロロ、新潟
10月1日−11日:ヒルサイドフォーラム、東京
10月18日−11月13日:釧路市美術館
なお、その図録は、『精霊たちのふるさと:アボリジニ現代美術展』(小山修3他編、2003、現代企画室)として出版された。
<----以下本文---->

現代に生きるドリーミング:アボリジニ・アートの目指すものは何か


1、はじめに

 アボリジニの「芸術」作品は、博物館や美術館で展示され、オークションにも登場し、高値で取引され、今までの美術市場に見られない多彩な色彩と力強い筆致によって、新しく発見された美の展開とうつる。しかし、アボリジニ「芸術」は、それだけは理解しがたい要素があることも事実である。それは、なぞめいた言葉「ドリーミング」であろう。スタナーというオーストラリアの人類学者によって命名紹介されたアボリジニの観念(1)なのだが、多様な意味が含まれていてわかりにくい。
 「ドリーミング」とは、神話時代の物語であり、天地創造の物語であり、同時に、そうした時代に登場するニジヘビや精霊といった存在そのものを指す場合もある。また派生語のドリームタイムは、ドリーミングの時代をあらわすが、「ついさっき」をさす場合もある。実に分かりにくい。この稿では、著者のフィールドワークにもとづいて1950年代にアーネムランド(2) でおきた「メモリアル」事件と1990年代以降のアボリジニの芸術を巡る諸状況について、ドリーミングに焦点を当てて、すこし別のアングルから見てみることにしよう。

2、「メモリアル」事件の顛末

 人類学者の調査が引き金となって、ガリウィンク(3)の「メモリアル」事件は起こった。
 1948年、マウントフォードに率いられたアメリカ・オーストラリア合同人類学調査がアーネムランドを舞台に実施された。これについて、デイビッド・ブルマラ(4) はいう。「人類学者たちの調査によって秘密の祭具ランガの写真が数多く撮られ、秘密の儀礼も映画に撮られた。儀礼に関わるクランの男たちのみが見ることのできたものが、写真や映画によって、すべて誰の目も触れるようになってしまったのだ。」
 わたしが、ガリウィンクの町に入ったのは、1984年のことであった。アートセンターの隣にあるオブジェはいやでも目についた。人々はこれを「メモリアル」とよぶ。中央には高さ約80センチメートルのコンクリート製の台があり、その周囲にポール状の彫刻ランガが14本たてられている。「1942年8月、ミッションが、ガリウィンクにもどった」という趣旨の文や有力な8つのクランの名が記されている。Memorial in Galiwinku
 ブルマラは、調査の初期、「メモリアル」について、「ミッションがガリウィンクにやってきたのを記念し、争いばかりしていた部族がお互いの平和をまもるよう協約をむすんだ。彫刻は、それぞれがもちよったものだ。」では、なぜ現在あれはてているのか。「協約を結んだ人々がもともとの目的をわすれ、自己の利益ばかりおいかけるようになったからだ。」しかし、一方「あれは、ブルマラがみんなをだました、メモリアルのせいでわれわれの秘密がみんな暴露されてしまったのだ」という声も聞いた。
 実は、ブルマラをはじめとする有力なガリウィンクの長老たちは、人類学者たちの調査をきっかけとして、秘儀を自ら暴露したのである。白人がやってきて豊富な物質文化にであい、かれらの社会は大きく変容をせまられた。そして、白人がもたらした「聖書」には、これまで言い伝えてきた先祖語りとは異なる物語がしるされ、しかも、アボリジニには白人のもたらした物質文化が、聖書にのべられている奇跡を証明するものとうつった。
 人類学調査の結果、研究成果としての資料収集、映画、報告書の公開は、秘密であったものが、だれの目にもふれることにつながった。成人儀礼や葬送儀礼につかわれる秘密の祭具ランガは、本来、公衆に披露されず、秘密の儀礼でつかわれた。それが、白人の人類学者や探検家の手によってつぎつぎと暴露される。ブルマラらは、いっそうのこと、盛大に聖なるランガを暴露し、その前で秘密の儀礼をおこない、みかえりとして白人のもたらす財を獲得しようとかんがえた。というのは、かれらの観念によれば、秘密のランガをことなる部族の男がみた場合、その部族のランガが明かされたのである。その論理に従えば、白人の目にもふれるように秘密の聖なるランガを公開すれば、白人の聖なるランガである「富」をもまた、引きつけることができるはずであった。
 しかし、ブルマラらの思いとちがって、白人たちは進んでかれらの財をアボリジニに提供することはなかったし、逆にこの事件は、女子供に秘密を暴露したために儀礼の神秘性を損なわせ、キリスト教会による伝統的儀礼の禁止や町での定住生活の強制と相まって、彼らの、元々の生活の存立基盤を失わせることになったのである。また、多くの人々はキリスト教に改宗したのであった。

3、ドリーミングとアーティストの戦略

 トンプソン・イルジリ(Thompson Yirrdjirri、以下トンプソン)は1930年生まれの老アボリジニ画家で、1995年、オーエンペリ(5)にあるインジャラク・アートセンターで出会った。彼は自分の描く絵は具体的な場所のことだという。かれが好んで描くテーマのひとつに「泣き虫坊やの物語」がある。その中に登場するニジヘビ(6)が、今もかれがかつて住んでいたカバリ(地名)に住んでいるというのである。
 カバリまではオーエンペリから車で2時間。最後の1時間ほどは、四輪駆動車にしても厳しい小道だった。岩壁にそって湾曲する川の流れのある小盆地がトンプソンの故地カバリである。右手正面の岩壁には、黒い染みが見え、物語のなかの生きのびた村人と2頭の犬が、今も張り付いているのだという。言われてよく見るとそのように見えないこともない。また、トンプソンが指さす岩壁の突き出した岩は、ニジヘビが鎌首をもたげた姿に見えなくもない。絵画のモチーフとなる物語の現場は、具体的な場所なのである。

 アートセンターの工房には、アボリジニのアーティストたちが、毎日通ってくる。トンプソンは、そうした画家のひとりである。創設は、1989年で、必ずしも古くないのだが、他とは違って作品を制作する工房施設を1992年に立ち上げ、アーティストが通ってくるというシステムを作った。また、季節によっては確保が難しいユーカリの樹皮のキャンバスを用いず、水彩画用紙を使うという方法を開発したのもここである。もともと、オーエンペリの付近はアーネムランドのなかで白人社会との接触が比較的早かった地域で、初期の樹皮画が見いだされた地域である(7) 。それを逆手にとったともいえる。
 私が調査した時期を含む1994/95会計年度の例 (8) をもとに、インジャラク・アートセンターの作品についてみてみよう。センターが手がけた絵画のほとんどは水彩画用紙に描かれたもので、記録によると、数点を除いて約3000点のすべてがそれにあたる。買い上げ時期別に見ると、最も多い月は1995年5月で326点、少ないのは1994年11月の185点、月平均約250点が買い上げられている。
 センターでは、6種類のサイズの水彩画用紙を用意する。各サイズに合わせてカットし、他の販路にアーティストが完成品を持ち込まないよう裏面にトレードマークをスタンプして、用紙の表面に水彩絵の具を用いて岩壁のイメージで彩色したものを用意する。アーティストは、希望のサイズの水彩画用紙をもらい受け、制作をするわけである。サイズごとの制作の様子を見てみると、最大サイズのものはまれで、一年を通じても6点に過ぎず、最も多いのは、サイズの小さな2種類で、合わせると、全生産高の約68パーセントを占める。
 買い上げ額は基本的にはサイズとアーティストにより決まる。最小のサイズの平均買い上げ価格は11ドル(豪ドル、以下同じ)で、サイズの小さなものから、それぞれ25ドル、148ドル、130ドル、最も大きいサイズは平均1170ドルである。買い上げ総額は17万1千ドルで、そのうち、点数では約31パーセントの大きなサイズ三種類の買い上げ総額では77パーセントを占める。買い上げ点数約3000点のうち、会計年度内に約62パーセントが販売されているが、残りは、在庫資産となっている。
 さて、トンプソンはアーティストのなかでも別格の存在である。彼の作品は、多くの場合、Mサイズ(1メートル×0.75メートル)の水彩画用紙が多い。作品の精粗にもよるが、完成まで一週間ほどを必要とする。かれの作品の場合、一慨にはいえないが、一点につき500ドル前後で買い上げられる。それに対して、多くの若いアーティストが好んで描くのはXXSサイズ(21センチ×31センチ)程度のサイズで、こうした小品の場合、半日程度で描き上げる事ができ、10数ドルほどの代価でセンターが買い上げる。若いアーティストもたまには大作に挑むのだが、買い上げ価格はトンプソンにはるかに及ばない。
 トンプソンの場合、購入先の多くはギャラリーや美術館、コレクターで、額装され販売される。いっぽう、若いアーティストの作品は、主に土産物屋などに購入されてゆくことが多い。ある種の格の違いと言ったものが両者の間に存在するようである。

4、ドリーミングを描く

 アートセンターにおけるアーティストが制作する作品のうちSサイズ(56センチメートル×75センチメートル)のサイズ以上の作品は94/95会計年度において全作品点数のほぼ三分の一を占めていた。このうち、336点については、タイトルとアーティスト名を記して、何が描かれているか記録されて、販売の際に証明書が添付される。これは、同時期の作品の約11.24パーセントにあたる。このクラスに該当するかどうかは、センターのマネージャーとアーティストが相談して決めることになる。
 マネージャーによると、証明書に記載される内容は3種類に分かれるという。まず、神話に関係のある物語で、「ジャン」とよばれる。この地域のドリーミングの物語は、ジャンである。証明書付きの作品336のうち86点(25.6パーセント)がこれにあたる。また「グンウォク」とよばれる事物起源説話のような物語が6点(1.79パーセント)ある。そのいずれでもなく、例えば、「淡水産のワニが描かれている」といった記載のものが244点(72.62パーセント)存在する。第三のカテゴリーについては、センターのマネージャーがその出来具合を見て判断したものだそうである。物語があるかどうかという点ではこれらは、「単なる絵」ともいうべきものなのだが。
 トンプソンの「泣き虫坊やの物語」といったジャンに関する絵画のテーマは特定のアーティストと結びついている。例えば、かれは同1会計年度に21点の作品を制作しているが、その半数の11点はジャンである。作品のうちジャンもしくはグンウォクの比率が半数を超える者は、いずれも名の通ったアーティストで、属する1族の主要な構成員である。一方、若手の有力なアーティストでもジャンをテーマとする絵画の数は2割程度でしかない。
 トンプソンの場合、かれが描いたジャンは「泣き虫坊やの物語」のほか5種類あるのだが、そのいずれも、かれだけが独占して描くわけではない。同じジャンを使った絵を描くことができるのは、たとえば、トンプソンの姉妹の息子と、末息子のロスである。ただし、ロスに関しては、ほかの若いアーティストとのあいだでもめていたことがあった。その理由は、「トンプソンの息子であるのだから描く権利を持っているのはわかるが、まだ若いじゃないか」、というのである。
 また、トンプソンの言によれば、もっとほかにもジャンがあるが、それは秘密で絵に描くことはないという。では、秘密のジャンと秘密でないジャンを区別するものは何か。トンプソンは、わからないという。先にふれたように、アートセンターの販売戦略におけるジャン(およびグンウォク)に関する作品の位置づけは、特別である。すなわち、証明書付きの作品はそれがない作品よりも高額で、証明書付きの作品のなかではジャン(およびグンウォク)というカテゴリーのものが高額である。サイズの大きな作品は小さな作品よりも高いことは言うまでもない。ジャンはこうした序列の中に位置づけられるのである。言ってみればジャンという「ほんものらしさ」という付加価値による序列付けといえよう。
 そのいっぽうで、若手アーティストによる非常に細かな表現がなされたジャンでない作品の存在も否定できない。すでに証明書付きの作品の数量としては、ジャン付きの作品数を凌駕し、買い上げ単価としても逆転しているのである。また、このカテゴリーの作品が展覧会へ出品され、高い評価を受けることもあるのである。

5、むすびにかえて:現代の「メモリアル」

 「ジャン」という格付けの作品は、オーエンペリの作家にとって見れば、最初に紹介した「メモリアル」事件で暴露されることになったランガと同じく、「ドリーミング」そのものである。かれらは「ジャン」を描き、それを芸術作品として市場に売り出すことによって彼らの秘密もまた暴露してしまったのだろうか。
 かれらの「ジャン」には秘密のものと秘密でないものとがあるという。秘密のものをあくまでも保持することによって、暴露された秘密はまだ一部にすぎないことを示して、その価値を高らしめる。いっぽう、グンォクという秘密でもないが美しい精密な絵画という新たなジャンルを生み出し、ツーリストのための小品というジャンルによって、別の市場が生み出された。また、砂漠のピカソの名をほしいままにしたエミリー・カメ・クワレエ (9)らのおかげで、それらの作風をまねた作品を市場が求めることになって、本来点描画法の見られなかった、あるいは、作風が異なった画法を持っていたアーネムランドの画家たちもまた、市場の要求に従って、従来とは異なる作品を生み出すようになる。
 つまり、市場のいうドリーミングと、本来彼らが秘密として守り続けてきたかれらの存在のよりどころとしてのドリーミングという二つのものが、別の価値を持っても差し支えないという状況が生まれた。「ドリーミング」という言葉が市場において一人歩きしはじめ、おかげで、ある種の隠蔽作用が生まれたのである。Modern Ranga
 わがアボリジニの父ブルマラは鬼籍に入って久しいが、かれの生涯をかけた賭ともいうべき聖なるランガの暴露という挙は、ひょっとして、意外な結末を招いたといえるかもしれない。すなわち、秘密を暴露することによって、むしろ、かれらの秘密の1端は明らかにされてしまったが、それを受け入れた市場は別の論理によって、ドリーミングの概念を別の市場価値として展開し、かえって、アボリジニたちの経済的自立の可能性というあらたな「ドリーミング」が生み出されたということなのかもしれない。

参考文献

Berndt,R.M., 1962, "An Adjustment Movement in Arnhem Land - Northern Territory of Australia", Mouton & Co, Paris.
Macintosh, Ian, 2000, “ Aboriginal Reconciliation and the Dreaming : Warramiri Yolngu and the Quest for Equality,” Allyn & Bacon.
Morphy, Howard, 1998, "Aboriginal Art", London, Phaidon.
Taylor, Luke, 1996, "Seeing the Inside: Bark Painting in Western Arnhem Land", Oxford, Clarendon Press.

脚注

(1)Stanner, W.E.H. 'The Dreaming (1953)' in White man got no dreaming Australian National University Press, Canberra, 1979.戻る
(2)オーストラリア連邦のノーザンテリトリー準州東北部にあるアボリジニ領で、面積は北海道と4国を合わせたほどもある。 戻る
(3)東アーネムランドのエルコ島にあるアボリジニの町のひとつ。戻る
(4)ガリウィンクの町のワラムリ・クランの長老で、著者の「養父」である(1918ム1994)。戻る
(5)西アーネムランドにあるアボリジニの町で、1920年代に建設されたこの地域でもっとも古い。戻る
(6)ニジヘビはアーネムランドで描かれる絵画の主や題のひとつで、地形や人々の由来に関わる造物主とされる。戻る
(7)Taylor, Luke, 1996, メSeeing the Inside: Bark Painting in Western Arnhem Landモ, Oxford, Clarendon Press.戻る
(8)本稿で用いた資料は、1995年当時マネージャーであったアンドルー・ヘドレーの提供による。なお、アートセンターにおいて制作されている作品については、http://www.injalak.comで見ることができる。戻る
(9)Emily Kame Kngwarreye(?-1996)戻る

なお、エミリーに関するサイトは多いが、生前の姿を写真にとどめたサイトと作品を掲載するサイトをいくつかあげておく。
http://www.jintaart.com.au/photo_album/album_emily.htm
http://www.dacou.com.au/emily1.html
http://www.nga.gov.au/exhibitions/emily.html
http://www.picknowl.com.au/homepages/dacou/emily.html
http://www.savah.com.au/emily.html

海外研修の事前学習

オーストラリア観光局のサイトに、学習関係のサイトを見つけた。
http://school.australia.jp/index.jsp
オーストラリア各地の1週間程度のスタディー・ツアーも紹介されているし、その他様々な情報をウェッブから仕入れることができる。

独り言とは何か

先日、FM放送で、カナダ人のパーソナリティが、日本人の「独り言」について話していたことが、頭を離れない。
こういう話だった。ある人(パーソナリティ本人なのか、友人なのか、場所がどこなのか、覚えていないが、英語話者である「ガイジン」であった)が電車のホームで隣にたっている日本人が「ああ、寒い」といって、その後も、何かぶつぶつ繰り返すのを聞いて、思わず、「なにか私に話したいことがあるのか」と聞いてしまったのだそうだ。すると、その日本人は、「何も、べつに」という。この人物は、変だと思い、「少し頭のおかしい人」の行動のように思えてきた、という。
そして、そのパーソナリティは言う。日本人の言葉は、単語が多く、英語はそうではない。簡単な言葉でも、文章をなしている。そして、「独り言」はしない。それを意味する言葉すらない、という。
辞書を調べてみると、monologueを「独り言」としていたものがあったが、これは、違う。モノローグとは、芝居で登場人物同士が会話を交わすダイアローグではなく、状況の説明とか、その人物の内面を言葉にするものであって、日本語でいう「独り言」とは違う。また、「mumbuling words」という言葉もあげられていた。これは、また違う。口中でぶつぶつと言っていることをさしているのだが、語感としては、奇妙な(あるいは病的な)行動でいつも、口の中でぶつぶつと話している、といった感じであろうか。
同僚の心理学者に聞いてみると、奇妙な人というイメージは、映画の「レインマン」のなかで主人公レイモンドのように、必要なコミュニケーションの内容と関わらず、ぶつぶつと何事かを繰り返す、といったものだろうという。
気になったことは、まず、日本語話者には存在する「独り言」は英語話者にはないこと、それは、言語の問題なのか、文化の問題なのか。一人暮らしの人間に「独り言」が増えるというのは、コミュニケーションの不足を補うために声を発するためという。これは、コミュニケーションの動物である人類にとって、普遍のことであろうと想像から、英語話者であれ、「独り言」が見られても不思議ではないのだが。
もし、ないというのなら、「文化」の問題なのだろう。心理学者との会話の中で、「引きこもり」という行動についても、日本人固有のものであるとされていて、当然英語にはないから「hikikomori」とそのままの言葉が用語となっているという。しかし、本当なのか?「引きこもりも」ふくめてみても、これらの行動は、果たして、日本文化(あるいは日本語)に固有のものなのか、東アジアに広がりをもつ現象であるのか。あるいは、逆に英米文化(あるいは英語)に固有なものであるのか。さらに、英語圏のアメリカ大陸に固有のものであるのか、あるいは、英米文化(あるいは英語)だけではなく、ヨーロッパ文化(印欧諸語)といった具合に拡大することができるものであるのか、これらに会わせて、ネイティブに聞いてみなければならないだろう。
関連して、電車の運転手などは「指差換呼」をするが、これは、もちろん「独り言」ではないのだが、こうした行動も、固有の文化行動なのだろうか。もっとも、「指差換呼」という言葉自体、死語に近い、あるいは、業界用語であるのかもしれないらしく、少なくとも手元の「広辞苑」には、見いだすことができなかった。
言葉そのものは文化には違いないのだが、「独り言」のような行動の存在は、生物学的な行動と文化的な行動の境界にあって、非常に興味深いもののように見える。文化人類学者としては、文化的な行動の観点からアプローチして理解したいことは言うまでもないのだが。

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