現代に生きるドリーミング

2003年7月から11月にかけて開催されたアボリジニ現代美術展「精霊たちのふるさと」にエッセーを寄せたので、採録しておく。この美術展はオーストラリア大使館のオーストラリア芸術祭「Ancient Future」の企画のひとつである。そのウェッブページは、http://ancientfuture.australia.or.jp/jpn/events/event_pages/event_1.php
である。3カ所で開催され、その情報は、以下の通りである。
7月20日−9月7日:越後松之山「森の学校」キョロロ、新潟
10月1日−11日:ヒルサイドフォーラム、東京
10月18日−11月13日:釧路市美術館
なお、その図録は、『精霊たちのふるさと:アボリジニ現代美術展』(小山修3他編、2003、現代企画室)として出版された。
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現代に生きるドリーミング:アボリジニ・アートの目指すものは何か


1、はじめに

 アボリジニの「芸術」作品は、博物館や美術館で展示され、オークションにも登場し、高値で取引され、今までの美術市場に見られない多彩な色彩と力強い筆致によって、新しく発見された美の展開とうつる。しかし、アボリジニ「芸術」は、それだけは理解しがたい要素があることも事実である。それは、なぞめいた言葉「ドリーミング」であろう。スタナーというオーストラリアの人類学者によって命名紹介されたアボリジニの観念(1)なのだが、多様な意味が含まれていてわかりにくい。
 「ドリーミング」とは、神話時代の物語であり、天地創造の物語であり、同時に、そうした時代に登場するニジヘビや精霊といった存在そのものを指す場合もある。また派生語のドリームタイムは、ドリーミングの時代をあらわすが、「ついさっき」をさす場合もある。実に分かりにくい。この稿では、著者のフィールドワークにもとづいて1950年代にアーネムランド(2) でおきた「メモリアル」事件と1990年代以降のアボリジニの芸術を巡る諸状況について、ドリーミングに焦点を当てて、すこし別のアングルから見てみることにしよう。

2、「メモリアル」事件の顛末

 人類学者の調査が引き金となって、ガリウィンク(3)の「メモリアル」事件は起こった。
 1948年、マウントフォードに率いられたアメリカ・オーストラリア合同人類学調査がアーネムランドを舞台に実施された。これについて、デイビッド・ブルマラ(4) はいう。「人類学者たちの調査によって秘密の祭具ランガの写真が数多く撮られ、秘密の儀礼も映画に撮られた。儀礼に関わるクランの男たちのみが見ることのできたものが、写真や映画によって、すべて誰の目も触れるようになってしまったのだ。」
 わたしが、ガリウィンクの町に入ったのは、1984年のことであった。アートセンターの隣にあるオブジェはいやでも目についた。人々はこれを「メモリアル」とよぶ。中央には高さ約80センチメートルのコンクリート製の台があり、その周囲にポール状の彫刻ランガが14本たてられている。「1942年8月、ミッションが、ガリウィンクにもどった」という趣旨の文や有力な8つのクランの名が記されている。Memorial in Galiwinku
 ブルマラは、調査の初期、「メモリアル」について、「ミッションがガリウィンクにやってきたのを記念し、争いばかりしていた部族がお互いの平和をまもるよう協約をむすんだ。彫刻は、それぞれがもちよったものだ。」では、なぜ現在あれはてているのか。「協約を結んだ人々がもともとの目的をわすれ、自己の利益ばかりおいかけるようになったからだ。」しかし、一方「あれは、ブルマラがみんなをだました、メモリアルのせいでわれわれの秘密がみんな暴露されてしまったのだ」という声も聞いた。
 実は、ブルマラをはじめとする有力なガリウィンクの長老たちは、人類学者たちの調査をきっかけとして、秘儀を自ら暴露したのである。白人がやってきて豊富な物質文化にであい、かれらの社会は大きく変容をせまられた。そして、白人がもたらした「聖書」には、これまで言い伝えてきた先祖語りとは異なる物語がしるされ、しかも、アボリジニには白人のもたらした物質文化が、聖書にのべられている奇跡を証明するものとうつった。
 人類学調査の結果、研究成果としての資料収集、映画、報告書の公開は、秘密であったものが、だれの目にもふれることにつながった。成人儀礼や葬送儀礼につかわれる秘密の祭具ランガは、本来、公衆に披露されず、秘密の儀礼でつかわれた。それが、白人の人類学者や探検家の手によってつぎつぎと暴露される。ブルマラらは、いっそうのこと、盛大に聖なるランガを暴露し、その前で秘密の儀礼をおこない、みかえりとして白人のもたらす財を獲得しようとかんがえた。というのは、かれらの観念によれば、秘密のランガをことなる部族の男がみた場合、その部族のランガが明かされたのである。その論理に従えば、白人の目にもふれるように秘密の聖なるランガを公開すれば、白人の聖なるランガである「富」をもまた、引きつけることができるはずであった。
 しかし、ブルマラらの思いとちがって、白人たちは進んでかれらの財をアボリジニに提供することはなかったし、逆にこの事件は、女子供に秘密を暴露したために儀礼の神秘性を損なわせ、キリスト教会による伝統的儀礼の禁止や町での定住生活の強制と相まって、彼らの、元々の生活の存立基盤を失わせることになったのである。また、多くの人々はキリスト教に改宗したのであった。

3、ドリーミングとアーティストの戦略

 トンプソン・イルジリ(Thompson Yirrdjirri、以下トンプソン)は1930年生まれの老アボリジニ画家で、1995年、オーエンペリ(5)にあるインジャラク・アートセンターで出会った。彼は自分の描く絵は具体的な場所のことだという。かれが好んで描くテーマのひとつに「泣き虫坊やの物語」がある。その中に登場するニジヘビ(6)が、今もかれがかつて住んでいたカバリ(地名)に住んでいるというのである。
 カバリまではオーエンペリから車で2時間。最後の1時間ほどは、四輪駆動車にしても厳しい小道だった。岩壁にそって湾曲する川の流れのある小盆地がトンプソンの故地カバリである。右手正面の岩壁には、黒い染みが見え、物語のなかの生きのびた村人と2頭の犬が、今も張り付いているのだという。言われてよく見るとそのように見えないこともない。また、トンプソンが指さす岩壁の突き出した岩は、ニジヘビが鎌首をもたげた姿に見えなくもない。絵画のモチーフとなる物語の現場は、具体的な場所なのである。

 アートセンターの工房には、アボリジニのアーティストたちが、毎日通ってくる。トンプソンは、そうした画家のひとりである。創設は、1989年で、必ずしも古くないのだが、他とは違って作品を制作する工房施設を1992年に立ち上げ、アーティストが通ってくるというシステムを作った。また、季節によっては確保が難しいユーカリの樹皮のキャンバスを用いず、水彩画用紙を使うという方法を開発したのもここである。もともと、オーエンペリの付近はアーネムランドのなかで白人社会との接触が比較的早かった地域で、初期の樹皮画が見いだされた地域である(7) 。それを逆手にとったともいえる。
 私が調査した時期を含む1994/95会計年度の例 (8) をもとに、インジャラク・アートセンターの作品についてみてみよう。センターが手がけた絵画のほとんどは水彩画用紙に描かれたもので、記録によると、数点を除いて約3000点のすべてがそれにあたる。買い上げ時期別に見ると、最も多い月は1995年5月で326点、少ないのは1994年11月の185点、月平均約250点が買い上げられている。
 センターでは、6種類のサイズの水彩画用紙を用意する。各サイズに合わせてカットし、他の販路にアーティストが完成品を持ち込まないよう裏面にトレードマークをスタンプして、用紙の表面に水彩絵の具を用いて岩壁のイメージで彩色したものを用意する。アーティストは、希望のサイズの水彩画用紙をもらい受け、制作をするわけである。サイズごとの制作の様子を見てみると、最大サイズのものはまれで、一年を通じても6点に過ぎず、最も多いのは、サイズの小さな2種類で、合わせると、全生産高の約68パーセントを占める。
 買い上げ額は基本的にはサイズとアーティストにより決まる。最小のサイズの平均買い上げ価格は11ドル(豪ドル、以下同じ)で、サイズの小さなものから、それぞれ25ドル、148ドル、130ドル、最も大きいサイズは平均1170ドルである。買い上げ総額は17万1千ドルで、そのうち、点数では約31パーセントの大きなサイズ三種類の買い上げ総額では77パーセントを占める。買い上げ点数約3000点のうち、会計年度内に約62パーセントが販売されているが、残りは、在庫資産となっている。
 さて、トンプソンはアーティストのなかでも別格の存在である。彼の作品は、多くの場合、Mサイズ(1メートル×0.75メートル)の水彩画用紙が多い。作品の精粗にもよるが、完成まで一週間ほどを必要とする。かれの作品の場合、一慨にはいえないが、一点につき500ドル前後で買い上げられる。それに対して、多くの若いアーティストが好んで描くのはXXSサイズ(21センチ×31センチ)程度のサイズで、こうした小品の場合、半日程度で描き上げる事ができ、10数ドルほどの代価でセンターが買い上げる。若いアーティストもたまには大作に挑むのだが、買い上げ価格はトンプソンにはるかに及ばない。
 トンプソンの場合、購入先の多くはギャラリーや美術館、コレクターで、額装され販売される。いっぽう、若いアーティストの作品は、主に土産物屋などに購入されてゆくことが多い。ある種の格の違いと言ったものが両者の間に存在するようである。

4、ドリーミングを描く

 アートセンターにおけるアーティストが制作する作品のうちSサイズ(56センチメートル×75センチメートル)のサイズ以上の作品は94/95会計年度において全作品点数のほぼ三分の一を占めていた。このうち、336点については、タイトルとアーティスト名を記して、何が描かれているか記録されて、販売の際に証明書が添付される。これは、同時期の作品の約11.24パーセントにあたる。このクラスに該当するかどうかは、センターのマネージャーとアーティストが相談して決めることになる。
 マネージャーによると、証明書に記載される内容は3種類に分かれるという。まず、神話に関係のある物語で、「ジャン」とよばれる。この地域のドリーミングの物語は、ジャンである。証明書付きの作品336のうち86点(25.6パーセント)がこれにあたる。また「グンウォク」とよばれる事物起源説話のような物語が6点(1.79パーセント)ある。そのいずれでもなく、例えば、「淡水産のワニが描かれている」といった記載のものが244点(72.62パーセント)存在する。第三のカテゴリーについては、センターのマネージャーがその出来具合を見て判断したものだそうである。物語があるかどうかという点ではこれらは、「単なる絵」ともいうべきものなのだが。
 トンプソンの「泣き虫坊やの物語」といったジャンに関する絵画のテーマは特定のアーティストと結びついている。例えば、かれは同1会計年度に21点の作品を制作しているが、その半数の11点はジャンである。作品のうちジャンもしくはグンウォクの比率が半数を超える者は、いずれも名の通ったアーティストで、属する1族の主要な構成員である。一方、若手の有力なアーティストでもジャンをテーマとする絵画の数は2割程度でしかない。
 トンプソンの場合、かれが描いたジャンは「泣き虫坊やの物語」のほか5種類あるのだが、そのいずれも、かれだけが独占して描くわけではない。同じジャンを使った絵を描くことができるのは、たとえば、トンプソンの姉妹の息子と、末息子のロスである。ただし、ロスに関しては、ほかの若いアーティストとのあいだでもめていたことがあった。その理由は、「トンプソンの息子であるのだから描く権利を持っているのはわかるが、まだ若いじゃないか」、というのである。
 また、トンプソンの言によれば、もっとほかにもジャンがあるが、それは秘密で絵に描くことはないという。では、秘密のジャンと秘密でないジャンを区別するものは何か。トンプソンは、わからないという。先にふれたように、アートセンターの販売戦略におけるジャン(およびグンウォク)に関する作品の位置づけは、特別である。すなわち、証明書付きの作品はそれがない作品よりも高額で、証明書付きの作品のなかではジャン(およびグンウォク)というカテゴリーのものが高額である。サイズの大きな作品は小さな作品よりも高いことは言うまでもない。ジャンはこうした序列の中に位置づけられるのである。言ってみればジャンという「ほんものらしさ」という付加価値による序列付けといえよう。
 そのいっぽうで、若手アーティストによる非常に細かな表現がなされたジャンでない作品の存在も否定できない。すでに証明書付きの作品の数量としては、ジャン付きの作品数を凌駕し、買い上げ単価としても逆転しているのである。また、このカテゴリーの作品が展覧会へ出品され、高い評価を受けることもあるのである。

5、むすびにかえて:現代の「メモリアル」

 「ジャン」という格付けの作品は、オーエンペリの作家にとって見れば、最初に紹介した「メモリアル」事件で暴露されることになったランガと同じく、「ドリーミング」そのものである。かれらは「ジャン」を描き、それを芸術作品として市場に売り出すことによって彼らの秘密もまた暴露してしまったのだろうか。
 かれらの「ジャン」には秘密のものと秘密でないものとがあるという。秘密のものをあくまでも保持することによって、暴露された秘密はまだ一部にすぎないことを示して、その価値を高らしめる。いっぽう、グンォクという秘密でもないが美しい精密な絵画という新たなジャンルを生み出し、ツーリストのための小品というジャンルによって、別の市場が生み出された。また、砂漠のピカソの名をほしいままにしたエミリー・カメ・クワレエ (9)らのおかげで、それらの作風をまねた作品を市場が求めることになって、本来点描画法の見られなかった、あるいは、作風が異なった画法を持っていたアーネムランドの画家たちもまた、市場の要求に従って、従来とは異なる作品を生み出すようになる。
 つまり、市場のいうドリーミングと、本来彼らが秘密として守り続けてきたかれらの存在のよりどころとしてのドリーミングという二つのものが、別の価値を持っても差し支えないという状況が生まれた。「ドリーミング」という言葉が市場において一人歩きしはじめ、おかげで、ある種の隠蔽作用が生まれたのである。Modern Ranga
 わがアボリジニの父ブルマラは鬼籍に入って久しいが、かれの生涯をかけた賭ともいうべき聖なるランガの暴露という挙は、ひょっとして、意外な結末を招いたといえるかもしれない。すなわち、秘密を暴露することによって、むしろ、かれらの秘密の1端は明らかにされてしまったが、それを受け入れた市場は別の論理によって、ドリーミングの概念を別の市場価値として展開し、かえって、アボリジニたちの経済的自立の可能性というあらたな「ドリーミング」が生み出されたということなのかもしれない。

参考文献

Berndt,R.M., 1962, "An Adjustment Movement in Arnhem Land - Northern Territory of Australia", Mouton & Co, Paris.
Macintosh, Ian, 2000, “ Aboriginal Reconciliation and the Dreaming : Warramiri Yolngu and the Quest for Equality,” Allyn & Bacon.
Morphy, Howard, 1998, "Aboriginal Art", London, Phaidon.
Taylor, Luke, 1996, "Seeing the Inside: Bark Painting in Western Arnhem Land", Oxford, Clarendon Press.

脚注

(1)Stanner, W.E.H. 'The Dreaming (1953)' in White man got no dreaming Australian National University Press, Canberra, 1979.戻る
(2)オーストラリア連邦のノーザンテリトリー準州東北部にあるアボリジニ領で、面積は北海道と4国を合わせたほどもある。 戻る
(3)東アーネムランドのエルコ島にあるアボリジニの町のひとつ。戻る
(4)ガリウィンクの町のワラムリ・クランの長老で、著者の「養父」である(1918ム1994)。戻る
(5)西アーネムランドにあるアボリジニの町で、1920年代に建設されたこの地域でもっとも古い。戻る
(6)ニジヘビはアーネムランドで描かれる絵画の主や題のひとつで、地形や人々の由来に関わる造物主とされる。戻る
(7)Taylor, Luke, 1996, メSeeing the Inside: Bark Painting in Western Arnhem Landモ, Oxford, Clarendon Press.戻る
(8)本稿で用いた資料は、1995年当時マネージャーであったアンドルー・ヘドレーの提供による。なお、アートセンターにおいて制作されている作品については、http://www.injalak.comで見ることができる。戻る
(9)Emily Kame Kngwarreye(?-1996)戻る

なお、エミリーに関するサイトは多いが、生前の姿を写真にとどめたサイトと作品を掲載するサイトをいくつかあげておく。
http://www.jintaart.com.au/photo_album/album_emily.htm
http://www.dacou.com.au/emily1.html
http://www.nga.gov.au/exhibitions/emily.html
http://www.picknowl.com.au/homepages/dacou/emily.html
http://www.savah.com.au/emily.html

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このページは、杉藤重信が2004年2月14日 11:48に書いたブログ記事です。

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