主な履歴

 1951年、大阪生まれ。甲南大学大学院応用社会学研究科博士課程満期退学(1981)の後、1988年4月、椙山女学園大学人間関係学部人間関係学科に助教授として着任。文化人類学ほかを担当。1995年4月、同教授。2000年4月、椙山女学園大学大学院人間関係学研究科教授併任。2000年4月、椙山女学園大学人間関係学部社会学専攻主任(2002年3月まで)。2002年4月、人間関係学部臨床心理学科設置とともに、臨床心理学科に移籍(教授)。2002年5月、椙山女学園大学人間関係学部学部長(2005年3月まで)。

大学生時代


(1)文化人類学との出会い
 大学の頃、石毛直道先生(当時、甲南大学文学部助教授、前国立民族学博物館館長)の文化人類学の講義にに感激し、演習もお世話になる。4年生の夏に、つれていって頂いた、島原半島でのフィールドワーク(「憑きもの」についての調査)で、さらに感動。進学を決意した。6月頃、青田刈りで親友とある会社の入社試験を受けて、内定の知らせをもらっていた。しかし、就職するイメージは、フィールドで消えてしまった。
 島原半島で泊めてもらった巫女さんのおうちで、夜遅くまで、松原正毅先生(民博)や石森秀三先生(当時、京大研究生で甲南大学の先輩)から、フィールドワークのお話を聞かせて頂いたのだが、それも、魅入られた原因のひとつだった。
 さて、大学4年の夏休み、巫女の和子さんとの出会いは、衝撃的だった。というのも、彼女のパーソナリティもあるのだが、彼女をよりしろとする「豊国大明神」には驚いた。あまり神ごとを信じないたちで、大学の4年の時の体験から現在に至るまで、変わらないのだが、初めての「豊国大明神」との対面は、全く面食らった。
 おうちに伺った我々一行を前に、「では、神様にもご挨拶をしていただきましょうか」とおっしゃり、和子さんは、家の奥にある祭壇の前に我々を誘った。介添えのおばあさんも一緒に、白い着物を羽織った和子さんは、祭壇に向かって、般若心経を唱え始めた。唱え終わると、我々のことを報告する。そして、あわせた手に向かって「ふっ、ふっ」と息を吹きかける。やがて、声が強く高まり、座布団の上で跳ね上がるようにすると、やがて、倒れた。
 介添えのおばあさんが、抱え起こすと、目をつむったまま、抱えられたまま、低い声になって「よく来た、我は豊国大明神なるぞ」と言った。これは、正直言って、どうとらえていいのか分からなかった。もちろん、笑えるわけもないし、また、かといって、直に「へへー」と平伏する気にもなれない。どちらかというと、居心地の悪さを感じるだけだった。やがて、石毛先生と松原先生が「大明神」と会話を始めた。(この段、未完)
(2)学生生活
 学生時代は、硬式テニスの同好会のクラブ活動(スポーツ愛好会硬式テニスパート)や生協組織部(4年)で活動したり、お勉強もさりながら、実に楽しかった。世の中は、70年安保の余波で騒がしかったが、比較的平穏であった。しかし、甲南大学では、四年になったとき(1973年)、学長室が封鎖され、スト破りに体育会系の学生たちが動員された。「就職に差し支える」とは、甲南らしいといえばそれらしかった。友人たちの何人もメットをかぶり、こもっていた。石毛先生もその中で、「自主ゼミ」を開いておられた。私は、どちらにも関わることなく、傍観していたにすぎなかった。

大学院時代

(1)修士論文
 大学院にはいったものの、その春、石毛先生は民博(国立民族学博物館)に転勤され、それで家族社会学の故・増田光吉先生の演習に入れていただく(家族社会学の劣等生でした)。
 修士論文は、愛媛県宇和島市沖の日振島をフィールドにして、日振島の網元の盛衰と島の人口変動についてモノグラフィックに描く(1)。まだ詰めが甘いままに提出したので、口頭試問の際に様々な指摘をいただき、特に、修士論文は初めての論文として大事だから、手を入れて活字になるよう努力しなさいとの指導を頂いたのだが、いまだに、できずにいる。
日振島のフィールドは石毛先生の農林省生活改善普及課の調査をお手伝いさせて頂いたことがきっかけになったもので、漁船に乗せてもらって、船の上で漁師さんたちに食べさせてもらった、イカやアジの刺身は忘れられない。魚を水揚げするために大分県の佐伯港や愛媛県の八幡浜港にも行った。実に貴重な体験だった。
 修士終了後、博士課程に進学できず、2年間の浪人生活を送ったが、その時の様子は、今で言う「引きこもり」のはしりだったと思う。この間、少しは表に出ることができるようになると、民博に勤務された石森秀三先生の研究室に入り浸る。大学院での専攻は「家族社会学」だったので、その反動でもあった。
(2)研究会の想い出
 松原先生の主催された民博の共同研究班「象徴・認識・分類」に入れて頂き、毎週の研究会では、いろんな発表を聞き、本当の意味で、耳学問をさせて頂いた。自分でも、何度か発表させていただいたのだが、その中でも、今でも何とかしなくちゃと思いつつ、整理のできていない「親族名称の分布」に関する分析があるのだが、今も気になっている。
 京都大学人文科学研究所の谷泰先生(現在・大谷大学)の共同研究班にも入れて頂きいた。当時助手だった「鬼軍曹」松井健先生(現在・東京大学東洋文化研究所)のもと、院生たちが集まった共同研究は、とんでもなく刺激的だった。松井さんの「あほちゃうか」という、発表に対する一刀両断の言葉(もちろん、その後、どうすれば良くなるかの言葉が続くのだが)が今も耳に残っている。
 石森先生とのご縁で、1979年から80年にかけて(博士課程2年目)、ミクロネシアのエラート環礁(当時、アメリカ信託統治領ミクロネシア、現在、ミクロネシア連邦ヤップ州)にて、初めてのフィールドワークをおこなった。石森先生が、同僚の須藤健一先生(現在・神戸大学)や秋道智彌先生(現在・統合地球環境学研究所)とともにサタワル島での調査をされたのとほぼ同時期を100km西のエラート環礁に滞在することができた。おもに、家屋や衣服に関する物質文化の研究(2)(3)(4)、カウンティング・システム(5)に関する調査研究をおこなう。
 初めてのフィールドワークでの思い出深いことは、調査結果よりも何よりも・・・。今でも思い出す。青く透明な大きく広がる太平洋。遙か水平線の向こうを大型船のマストやブリッジだけが浮かんで見え、地球の丸さを体験することができた。そして、白い雲が浮かぶ青い空と自給自足の島での暮らし。またとない得難い経験であった。このときの体験をなんとかモノグラフとしてまとめたいのだが、もうずいぶん時間がたってしまっていてどうか。いろいろと記憶が希薄になってしまっていることもあって、フィールドノートの補足がうまくできるかどうか・・・。

ミクロネシア調査(作成中)

(1)ミクロネシアへの旅立ち
 1979年5月、とうとう、ミクロネシアに向けて出発した。石森先生たちには、調査許可が届いたのだが、同時期に調査許可申請を出していたのに、なしのつぶてだった。石森先生は、こうなったら、自分で道を切り開くしかないな、という。ヤップ島で合流しようという。おまえが来なければ、それでおわりだ。結構、身にしみる言葉だった。
 それで、当時のアメリカ信託統治領政府組織のサイパン政庁の入国管理局のメンディオラ局長を訪ねることになった。局長執務室に入り局長に面会、だが、言葉が出ない。ここに来て、英語は読めても、うまくしゃべれない事に気がつく羽目になった。でも、何とか、片言で、誠意とやる気を認めてもらった。しかし、おまえのような英語で、調査はできるのか、との仰せ。そうだな・・・。
 ともあれ、ありがたいことに、調査許可を出してもらっただけではなく、ホテルは高いだろうから、うちに泊めてやると行って頂いた。娘を迎えに行かせるからホテルで待てという。早速、局長のお嬢さんにホテルでひろってもらい、サイパン島を案内していただき、2泊もさせてもらった。彼の寛大さがなければ、調査に行くこともできず、そのまま挫折するところだった。
(2)ヤップ島
 ヤップ島の空港は、滑走路が短く椰子の葉先のすぐ上を急角度で着陸する。木造の建物で、パスポートのチェックを受ける。係官の唇と口中が真っ赤で度肝を抜かれた。「ビンロウ椰子」を噛んでいたのだった。空港には、石森さんと須藤さんが出迎えてくれ、「よく来た」といってくれたときには、本当にうれしかった。
 ヤップ島の首都コロニアの「ラグーン・モーテル」に連れて行ってもらう。現地で働いておられる宮井さんの支援を得て、私を含め石森さん一行4人は、「キャロライン」丸の出航までの間、荷物を買いそろえることになった。私の場合は、この段階ではどこの島にはいるのかめどがついていなかった。事前学習では、イファリク島を目標としていたのだが、コネクションがなかった。また、ウォレアイ島も可能性があった。両方ともすでに民族誌が書かれていたり、辞書が作成されていた。その分、調査も比較も可能だろうということだった。
 ヤップに到着して一週間ぐらいたった頃か、宮井さんの経営するスーパーで装備や食品を見繕っていると、赤いふんどしを締め、ココヤシの葉で編んだハンドバッグを持つ老人に日本語で挨拶された。私の現地での父親代わりになるサウタルとの出会いであった。彼は、非常に流ちょうな日本語を話し、こちらが年配の人間への配慮をした敬語を話すと、「日本人の方は、そんな話し方は必要ではありません」という。思いもかけない、奇妙な敬語観であったが、それは、とりもなおさず、サウタルの受けた日本語教育の成果であった。彼は、おそらくミドルティーンの頃選抜されて当時の「公学校」に入れられ、体罰を含む厳しい教育の結果、敬語・謙譲語をマスターしたのであった。三年間ではなせるようになったという。その教育も非常に厳しかったらしいが、体罰についても「私たちが至らなかったのです」との言葉によって、説明したのだが・・・。
 思いもかけない出会いに、思わずあなたの島に連れて行ってくださいとお願いすることになった。次の船で彼も帰島するとのことであった。彼は、酋長に聞いてみるから少し待ってくれるようにといい、最初の出会いは終わった。次の日もしくはもう少し間が開いたかもしれないが、彼と再び宮井さんのストアで出会い、「エラート環礁」が受け入れてくれるとの答えを聞いた。これも、私にとって、サイパン島のメンディオラ局長の厚遇に続く、非常に幸運な出会いであった。エラート環礁の人口は小さく、ビギナーのフィールドワークの場としては、最適な場所に思えた。
(3)エラーと環礁
(つづく)

民博居候時代

(1)小山研究室へ
 ミクロネシアでの報告書をまとめる段階で、民博の小山修三先生の研究室に居候させていただくことになった。報告書作成の際、アドバイスをいただけることが表向きではあったが、オーストラリアにいけると言うことが最大の理由であった。
 小山先生が1982年にオーストラリアに調査に出かけられた留守を郵便物と資料の整理をするということで研究室の留守居役となった。先生が共同研究を進めておられた『斐太後風土記』のデータを使って、何か一本論文を書いてみなさいという課題は、お留守中には果たせなかったが、後にクラスター分析を使って江戸末から明治にかけての飛騨地方の焼畑村落の類型化を試みた論文を書くことができた(6)
(2)縄文人口シミュレーション
 小山先生は、カリフォルニア大学デービス校でのPhD論文は縄文時代の人口変動についてお書きになったのだが、それをふまえて、縄文時代の人口変動についての人口シミュレーションをしようとおっしゃり、当時民博に出入りしていた大阪大学の電子工学の大学院生(浅沼弘君・現在NEC)と三人で九州旅行。これは、椎葉村などを訪ねて日本に残る痕跡的な焼畑の名残(縄文時代の)を訪ねながら、シミュレーションの構想を練ろうというものであった。温泉をめぐり、毎晩議論を重ねた。ところが、研究が始まると、浅沼君は就職が決まってしまい、わたしがプログラムを作ることになってしまった。その結果、とんでもなく、小山先生にご迷惑をおかけすることになった。
 わたしのプログラミング(FORTRAN)は当時は素人の粋を出ず、それでも、小山先生の叱咤激励で何とか最後までこぎ着けることができた。『縄文人口シミュレーション』(7)はその後、各所で引用され、とても鼻が高かったが、しかし、実のところ、わたしの貢献は、ごく一部に過ぎないことはいうまでもない。しかしながら、この仕事をきっかけにして、コンピュータを使った研究に関して蒙を開くことができたことは大きい。

オーストラリアへ(作成中)

(1)オーストラリア以前
 小山研究室へ居候することになった直接的な動機は、小山先生がオーストラリア・アボリジニの調査を1979年以来、初めておられ、調査チームをあらたに編成されるということを知ったからだった。ミクロネシアへの調査行の前から、アボリジニのことは気になっていたのだが、どうしたらよいのかオーストラリア国立大学に留学するのかぐらいのことしかイメージしていなかった。何か実行に移すことはなく、ただ考えていただけだった。それだけに小山研究室のプランは現実的で、魅力的であった。
 1983年には京都じゅらくの企画で中央砂漠のアーナベラからアートセンターのマネージャーのウィニフレッド・ヒリヤードがユパティとニュカナというアボリジニの女性アーティスト二人を連れてきて、初めてアボリジニにあった。また、同じ年、オーストラリア国立大学のニコラス・ピーターソン(ニック)とジャック・ゴルソンの二人が来日した。これは、我々の調査のさらなる深化をはかるためにオーストラリア国立大学コネクションを強化するものであった。
 1984年の科研調査に同行させていただき、アボリジニ調査を始めることができた。シンガポール航空でシンガポール経由でシドニーで入国したのだが、当時、着陸してスポットに停止すると、半ズボンで半袖の開襟シャツ(9月で冬の終わり)の検疫官が機乗してきて、殺虫剤の缶を両手に持ってスプレーしながら通路を前から後ろまで歩いていったのには驚かされた。シドニーからキャンベラにゆき、オーストラリア国立大学の旧知のニックとジャックに再会した。
(2)
(つづく)

名古屋へ:椙山女学園大学への着任(作成中)

(1)着任のいきさつ
 1988年、ご縁があって椙山女学園大学に就職が決まった。人間関係学部がその前年に新設され、要員として2年目に着任したのである。
 1985年に、当時の椙山正弘理事長と故・芦田均学長に面接とのことで、星が丘キャンパスに呼ばれ、両先生にお目にかかった後、椙山先生から文化人類学関係の選書リストをわたされ、必要なものに印を付けなさいと、宿題をいただいた。この年、すでに34歳になっていたので、何とか就職できないものかと思っていたのだが、うまくいっていない中での、面接と選書のお話だったので、決まったのか、それとも、選書だけを依頼されたのか、実に不安であった。
 椙山の人事の話を伺ったのは、甲南大学の恩師の一人、都市社会学の故・高橋純平先生からであった。先生は、甲南大学に着任の前には、金城学院大学に勤務しておられ、そのころの縁で、豊田市史の編纂にも携わっておられた。私の業績のひとつにもなっているのだが、院生時代あるいは大学院浪人時代のミクロネシアに行くまでの間、何度か、名古屋や豊田を先生とともに訪ねていた。それが、まさか、自分が名古屋に赴任することになるとは、想像だにしなかったことは言うまでもない。
 高橋先生は、人間関係学部の設置のスタッフの一員として、着任されることになっていたのだが、文化人類学のポストの必要を主張され、あわせて、私に声をかけていただいたのであった。だから、おそらくは、名古屋での面接は、最終的なもので、ほぼ確定と言うことだったのだろう。しかし、自分自身としては、設置のための履歴書と業績一覧に判子をつき、大学設置審から「助教授として可」との知らせがくるまで、落ち着かないことこの上なかった。高橋先生は、私が着任して二年後に椙山にいらっしゃって、2年という短い期間であったが、同僚としても、公私ともに大変お世話になった。(つづく)

アライアンス・プロジェクト

(1)アライアンス・プロジェクト
 アライアンス・プロジェクトは社会人類学・文化人類学におけるフィールドワーク支援のための親族データベース及び家系図作成のツールを開発するという目的で企画されたものだ。
 省電力化・小型化・高性能化という情報科学の技術的展開の結果、コンピュータをフィールドの現場に持ち込み、フィールドワークの補助手段とすることは、すでに多くの現場で可能になっている。現在でも埃や湿度などによって、機器にとって相当困難な場所もあるが、それでも、最大の問題である電源に関して発電用のソーラーパネルを持ち込めば、問題なく情報機器の利用が可能になった。こうした状況をふまえると、コンピュータの存在を前提としたフィールドワークの支援ツールの開発は焦眉の急とおもわれた。
 開発名を「アライアンス」と名付けた親族データベース及び家系図作成のためのフィールドワーク支援ツールの開発することは、社会人類学・文化人類学の家族・親族領域に関する研究にとって大きな意義があると考えたわれわれ共同研究チームは、本研究プロジェクトを企画することになったわけだ。
(2)プロジェクトの背景
 この研究の基盤となる共同研究の発端のひとつは、研究代表者の杉藤が、後に「人口規制要因としての婚姻規則:コンピュータ・シミュレーションによる分析」 として平成3年に発表した研究である。この研究の構想は、平成元年以前に、すでに萌芽しており 、これを経緯として、婚姻システムの数理モデルに注目していた統計数理研究所の伊藤栄明を代表とする共同研究班 が生まれることになった。この共同研究は平成2−4年に行われたが、「確率モデル探求のための研究素材を求める伊藤らの統計数理学者と民族学の新たな領野としての数理民族学を求める民族学者が出会うというもの」 であった。これをふまえて引き続き、平成5−6年には、小山修三を代表として国立民族学博物館において共同研究班「数理民族学」が誕生する。2年間という短い期間であったが、フィールドワークの成果をどのようにモデル化し、計量的にデータを処理するのかという、従来の民族学・文化人類学の研究スタンスには見られなかった新たな研究手法の模索が行われた。
 「数理民族学」共同研究班の一員でもあった及川昭文は、平成7−10年度に重点領域研究「人文科学とコンピュータ:コンピュータ支援による人文科学研究の推進」(研究代表者・及川昭文・総合研究大学院大学・教授、平成7−10年度)を組織、人文科学の研究手法にコンピュータによる支援システムを加味した新たな研究枠組みを構想することになる。それを受けて、同じく「数理民族学」の構成員であった田中雅一は、窪田幸子と杉藤とともに、公募研究班「文化人類学における家族・親族領域を中心としたフィールドデータの処理と分析」(平成7−10年、研究代表者・田中雅一・京都大学人文科学研究所・助教授)を組織する。この共同研究は、久保正敏(国立民族学博物館)と濱崎修平(倉敷芸術科学大学)をくわえ、市販のデータベース・ソフトのFileMakerProとJava言語をもちいて、親族データベースと家系図表示の実現を目指すこととなった。しかし、高価な市販ソフトを使用する点やベースとなるOSをMacintoshとしたこと、既製のソフトを使用することによる技術的限界、開発資金・時間の不足などが足かせとなって、満足のいく成果を上げることができなかった。
(3)科学研究費補助金の獲得
 アライアンス・プロジェクトは、こうしたこれまでの研究成果を受けて、日本学術振興会の科学研究費補助金・基盤Bを得て、杉藤を代表者として平成12年に発足することになった(日本学術振興会・科学研究費補助金・基盤B「イメージ処理を伴う文化人類学調査ツールの開発と研究」、研究代表者・杉藤重信、平成12−14年)。親族データベースと家系図表示のためのアプリケーションの開発を主たる目的とし、前研究をプロトタイプ・モデルとして開発思想を継続し、汎用的なシステム開発を前提に、新たにすべてのルーチンをJava言語により開発を行うこととし、三年間のうちに所期の目的を達することができた。Javaにしたのは、プラットフォームを問わないしくみが必要と考えたためで、当時、xml(もしくは、ウェッブベース)を用いる案も出ていたが、スタンドアローン版のJavaを選択した。データベースもJava版を用いたのだが、実は、それから間もなくして、世の中はサーバーサイドJavaの全盛となってしまい、進路選択が誤ったかもしれない。しかし、その時点では、最善のものであったと考えた訳である。
引き続いて平成15年度から日本学術振興会の科学研究費補助金・基盤B「親族データベースおよび系図の利用に関する応用人類学的研究:アプリケーションおよびその利用に関する支援手法の開発」(研究代表者・杉藤重信、平成15−17年)がいただける事になり、この研究では「Alliance」と名付けた親族データベースの精緻かをはかるとともに、先住民知識のひとつとしてきわめて重要な親族知識のための知識データベースを構築するために、オーストラリアにおける各地現地社会とのコンタクトを行った。折から、文化資源や知的財産について、先住民知識の所有権をめぐって様々な論議のなか、なかなか思うように現地社会との調整が滞っている。
さらに、誠にありがたい事に平成18年からは同じく日本学術振興会の科学研究費補助金・基盤B「親族データベースの構築と運用に関する総合的研究:XMLによる親族構造記述およびデータベース連携を目指して」(研究代表者・杉藤重信、平成18−20年)がいただける事になり、プロジェクトを継続する事になった。
 すでに述べたように、本研究の展開には多くの方々のご支援を賜っている。プロジェクトに関係した皆様方に、感謝を申し上げたい。とりわけ、数理モデルと文化人類学の架橋を意識して研究の流れをリードしてこられた小山修三先生(国立民族学博物館・名誉教授)、また、人文科学のためのコンピュータの支援という新たな研究枠組みを創設された及川昭文先生(総合研究大学院大学・教授)、領域外の生データを扱う我々についても常にお目配りをいただいた統計数理学者の伊藤栄明先生(統計数理研究所・教授)については、とりわけ、心から感謝の意を捧げたいと思う。諸先生のご支援なしには、本研究の展開はあり得なかった。そして、アプリケーション開発に携わった松山大樹氏(プライム・システム・デザイン)に対し、これまでの仕事ぶりに対して敬意を表するとともに、深謝の念を捧げたい。あなたのねばり強さと好奇心に大いに助けられてここまでたどり着くことができた。
 アライアンス・プロジェクトのサイトは、以下の通り。
 http://study.hs.sugiyama-u.ac.jp/alliance/