2008年度修士論文等発表会 発表要旨

 

中部人類学談話会では、 2009年度5月例会(2009年5月16日)において、2008年度修士論文発表会を行います。関係の皆さんには、ぜひご参加いただきますよう、ご案内申し上げます。
 
2009年5月1日 現在までに受付た発表要旨(受付順)

 

金 秋延(キム チュヨン)(愛知県立大学大学院修士論文提出者、現在・愛知県立大学大学院国際文化研究科博士後期課程在学中)

在日朝鮮人の民族教育からみるエスニシティ?中国朝鮮族との比較の視点から?

■ 本研究は、在日朝鮮人(「在日韓国・朝鮮人」ともいう)と中国における朝鮮族(主に延辺朝鮮族自治州の朝鮮族)を研究の対象にするものである。在日朝鮮人も、中国朝鮮族も、かつて朝鮮半島に居住していた同じ民族である。同じ祖先、故郷をもった両者は、異なった国家体制と文化環境の中で、それぞれどのように自分の民族性を維持してきたか、あるいはそれを失いつつあるかは興味深い課題である。本研究は、文化人類学の視点から、両者の相違点の比較分析を行い、異なるその国家体制と文化環境(とりわけ民族教育)が一つの民族集団のエスニシティにどのような影響を与えているかを明らかにする。
■ 両者のエスニシティの研究に関しては、エスニック・アイデンティティ、言語使用、族際婚、さらに民族教育など様々な側面があるが、本論文においては、自民族の言語を用いた民族教育を通して両者のエスニシティを比較研究する。過去の研究では、在日朝鮮人と中国朝鮮族両者の民族教育を各自研究したものは見られるが、総合的に比較分析したものは見られない。本研究はこの点で特徴的であり、ある意味でその分野の研究空白を埋める試みである。
■ 筆者は中国生まれの朝鮮民族の出身であるため、朝鮮語と中国語を用いて、中国朝鮮族を対象とした中国吉林省図們市第二小学校での調査を支障なく行なうことができた。さらに、自らが朝鮮民族であるという立場から、名古屋朝鮮初級学校の校長先生に既に自分の研究目的を説明し、名古屋朝鮮初級学校で聞き取り調査と資料収集などを行うことを許可され、2007年6月から2008年12月にかけて調査を行った。
■ 本研究の資料収集は、文献調査と実地調査(フィールドワーク)によって行った。文献研究において、日本語・中国語・朝鮮語で書かれた在日朝鮮人と中国朝鮮族に関する文献資料と研究論文・著書を収集した。実地調査は、参与観察・聞き取り及びアンケート調査の方法を実施し、聞き取り調査では特徴がある対象(民族教育をうけた民族学校の教師)を選んで行った。またアンケート調査では、母集団の範囲を確定するのが困難なため、無作為抽出(random sampling)ではなく、作為的な抽出で調査対象を選んだ。このような抽出方法は、分析の段階で信頼度が下がるおそれがあるが、記述統計によって調査対象の実態を把握することに意味があると考え、その結果を文化人類学のエスニシティの関係理論を用いて解釈と議論を行った。(2009.4.24受理)

鷲野明美(愛知県立大学大学院修士論文提出者)

「ドイツにおける高齢受刑者の処遇--日本との比較」

■  『平成20年版犯罪白書』でも指摘されているように、日本では、近年高齢者による犯罪が増加し続け,検挙人員、受刑者及び保護観察対象者等、刑事司法の各段階に占める高齢者の割合は,人口の高齢化以上に急激に上昇している。また、日本の犯罪者や受刑者の中には、福祉の支援を必要としている高齢者、障害者等が含まれており、これらのなかには、地域社会、そして矯正、保護の段階における支援体制が不十分であるがために必要な支援を受けられず、その結果、累犯に至る場合が少なくないとの現状が明るみに出てきた。これに対しては、法務省と厚生労働省が共同でこれまでの受刑者処遇を見直し、様々な受刑者支援を検討、実施しはじめたところである。
■  このような状況に対し、発表者は、総人口に占める高齢者の比率が比較的近いドイツにおける高齢受刑者の処遇について調査、研究した。ドイツには、1970年代より高齢受刑者のみを対象とした処遇を行っているドイツ唯一の高齢者専用刑務所Konstanz刑務所Singen支所(Justizvollzugsanstalt Konstanz Außenstelle Singen)がある。また、Hessen州Schwalmstadt刑務所(Justizvollzugsanstalt Schwalmstadt)では、2006年より同敷地内にあるKornhausにおいて高齢受刑者処遇に関するモデル的な取組みを開始した。
■  ドイツにおける高齢受刑者の処遇に関しては、これまで我が国では資料がほとんど存在せず、また、ドイツ文献でも十分な情報が得られなかった。そこで、発表者は2008年5月と9月にKonstanz刑務所Singen支所に出向き、施設長に対して聞き取り調査を行った。
■  本発表では、Konstanz刑務所Singen支所およびHessen州Schwalmstadt刑務所Kornhausでの取り組みに関し、文献や調査により得られた情報を報告するとともに、日本の現状と比較し、我が国の高齢受刑者処遇について検討する。(2009.4.29受理)

伊藤渚(名古屋大学大学院修士論文提出者)

「首都ビエンチャンを中心としたラオス手織物工芸:市場化・国際化するラオス社会のなかの伝統染織」

■ 本研究は、手織物の商品化が急速に進み、手織物「産業」とも呼べるような活況を呈しているラオス人民共和国の首都ビエンチャンにおいて、そうした状況がどのように成立し、現在、何に支えられて成り立っているかを明らかするものである。
■ ビエンチャン市内には手織物工房や、染織活動のみられる村が点在しており、また、ビエンチャンの市場は、ラオス各地の手織物の集積地となっており、ビエンチャンは、ラオスの手織物のセンターである。
■ 本論では、まず、市場の商人や手織物工房のオーナー、村の織手などからの聞き取りにより、ラオスにおける手織物の商品化について次の3点を明らかにした。①手織物の商品化は、1960〜70年代の戦争と社会主義革命、1986年の市場開放、特に90年代後半からの経済発展の進展とともに急速に進んだ。②90年代後半からの経済発展期には、オーガニックな手織布や「伝統」的なラオスらしい手織布を求める外国顧客とともに、都市部の中流階級や富裕層のラオス人が主要な購買層となっていった。③外国人顧客のニーズを理解する商人企業家であり、文化の翻訳者でもある工房オーナーら知識階層が、手織物の商品化に大きな役割を果たした。
■ 次に、工房や村の織手からの聞き取りから次の4点を明らかにした。①織手は全員タイ系諸族の女性である、②村の織手の90%、工房の織手の80%は本人もしくは父母がシェンクワン県・ホアパン県の出身者である、③嫁いできた者をのぞいた全員が家族内に織技術保持者を有しており、かつその大半は織技法を女性親族から習得している、④全員がビエンチャンに親族を有している。
■ 以上から、現在のビエンチャンの手織物生産は、1960〜70年代の戦争と社会主義革命、1986年の市場開放から現在に至るまでの市場化・国際化といったラオス特有の歴史事象の中で成立し、現在は、北部ラオスを中心としたタイ系諸族の女性親族間で継承されている染織技法と、ラオス社会に従来からある人的ネットワーク、社会慣行とによって支えられ成り立っているといえる。(2009.4.30受理)

角 友恵(愛知県立大学大学院修士論文提出者)

「メキシコのテオティワカン遺跡における『蝶』の表象様式」

■ 本論文では、メキシコのテオティワカン遺跡の「壁画」、「劇場型香炉台」、「その他の土器」に表現された蝶の表象様式について分析した。今までにもテオティワカンの蝶のモチーフはたくさん研究されてきたが、これらの蝶の表象様式に関してまとめて細かく研究されたものはないので、今回分析を試みた。
■ テオティワカン以前の先古典期では、はっきりとした蝶のモチーフは見られない(Franco 1959)。テオティワカン時代には多くの蝶のモチーフが用いられ、その後の時代も彫刻、ハンコやマスクなど様々な物に表現され、メソアメリカ全域で見られた。つまり蝶のモチーフがその後の時代にたくさん見られるようになったのは、テオティワカン社会がきっかけになったと言えるかもしれない。
■ 分析方法は、まず「壁画」、「劇場型香炉台」、「その他の土器」のそれぞれで蝶の表象様式を分析し、最後にこれらの三つの中で共通点や差異点を探った。また実際の蝶と比較し、どの程度蝶を表現するのに反映されているのかをみた。「壁画」は「テパンティトラ地区」と「太陽のコンプレックス地区」に集中して描かれた。「劇場型香炉台」は出土場所がわからない物も使用した。「その他の土器」ではテオティワカンから出土したとはっきり分かったものを使用した。
■ 分析の結果、蝶はおおむね体、触角、目、吻、翅で表現され、各々の蝶の表象様式は異なる部分もあるが、お互いに共通する部分も多くあったことがわかった。特に蜜を吸う吻は蝶を表す一つの要素として表現されたととらえた。また、「劇場型香炉台」と「その他の土器」では、それに羽のようなものが付いているものもあった。実際の蝶の体と比較しても、その特徴を生かして表現された蝶が多くみられたが、それとは全く関係ない牙、口、手、矢などの要素を持った蝶もいくつか見られ、これらの蝶は何か特別な意味を持っていたのではないかと考える。また多くの目は二重の目で表現され、この表現はいろいろな動物や人物像でも見られるので、それらと関係があるのかさらなる分析が必要だろう。また、羽のついた目が「香炉台」、「その他の土器」の蝶に頻繁に出てきたが、「壁画」ではほとんど見られなかった。
■ 蝶が「テパンティトラ地区」と「太陽のコンプレックス地区」に多く描かれたことや、「劇場型香炉台」で頻繁に使用されたことから、それらの地区や香炉台との関連性が強くみられるが、その描かれた位置や蝶の大きさから、主要テーマというよりもむしろ周辺的な意味を持っていたと考える。また「その他の土器」に描かれた蝶は多様な表現がされており、もしかすると「壁画」や「劇場型香炉台」の蝶よりも自由に表現でき、より個人的に利用されたのではないかと考える。
■ 「壁画」「劇場型香炉台」「その他の土器」で蝶が鳥と密接に関連していることもわかった。特に「その他の土器」に描かれた蝶の要素を持った人物像は鳥の要素を体に身につけたり、鳥と同じ場面で描かれた。
■ テオティワカンでは文字がはっきりと確認されていないので、これらの蝶が具体的に何を表しているのか本論文では答えが出なかった。一般的に人の魂を表しているとされているが、さらに文脈の中での蝶の解釈が必要だと考える。本発表では蝶の表象様式について紹介する。(2009.4.30受理)

松平勇二(名古屋大学大学院修士論文提出者)

「ジンバブエ独立闘争歌『チムレンガ・ミュージック』の研究」

■ 本発表はジンバブエ共和国における現代音楽の歌詞分析から、ジンバブエ社会における民衆、音楽、政治の関わりを明らかにする。研究の対象として取り上げたのは「チムレンガ・ミュージック」の歌詞である。チムレンガ・ミュージックの「チムレンガ(chimurenga)」はショナ語で「闘争:struggle」を意味する。これは少数白人による人種差別的支配に抵抗する、黒人解放闘争(チムレンガ)に由来する。
■ 白人によるジンバブエ(旧ローデシア)の支配が本格的に開始されたのは19世紀末である。白人入植者は鉱物資源や農地を求めてローデシアに入植し、先住の黒人の土地を収奪した。土地を追われた黒人は、限定された土地への居住を強いられるなど、数多くの人種差別的支配を受けた。
■ このような少数の白人による支配に対し、黒人は2度の大きな反乱を起こした。1度目1986-87年にはンデベレ族の蜂起をきっかけにショナ族も蜂起した。しかしこの蜂起はヨーロッパの最新兵器の前に鎮圧された。この戦争は第一次チムレンガと呼ばれている。そして1960年代半ば移行に開始されたのが第二次チムレンガである。チムレンガ・ミュージックは第二次チムレンガの中で生まれた。黒人解放軍はザンビアやモザンビークなど、隣国に拠点を置き、ゲリラ兵をローデシアに送り込んで戦闘を行なった。この戦いは1980年のジンバブエ共和国独立をもたらした。
■ 本発表でとりあげるのは、1970年代から現在に至るまで活躍を続ける歌手、トーマス・マプフーモの歌詞である。マプフーモの歌詞分析からはジンバブエ社会における人間、音楽、政治の関わりの一端を見ることができる。マプフーモは常に一般大衆の視点から楽曲を作る。メロディーやリズムなどの音楽的要素はジンバブエの土着音楽に由来し、歌詞は大衆の経験や思いを表現したものである。マプフーモの1970年代から2007年にいたる260曲あまりの歌詞を分析したところ、そのおよそ半分が一般民衆の日常生活における「経済mari」や「死kupera」などに関する苦難や、その根源にある政治的な問題に言及した曲であることがわかった。(2009.5.1受理)

林泰子(名古屋大学大学院修士論文提出者)

「過疎山村地域における民俗芸能の継承に関する研究:主に戦後の奥三河地方と花祭りの事例から」

■ 本論文は、過疎化と少子高齢化が進行する奥三河の山村地域において、国の無形民俗文化財にも指定された民俗芸能が、現在誰によってどのように継承されているのか民族誌的に記述したうえで、明治時代から高度経済成長期を経て現在に至るまでの間に、この民俗芸能の運営形態や実施方法をめぐって地域住民が推進してきた数々の「改革」に注目し、これらの「改革」が進められてきた理由を当該地域社会の政治経済史とも関与させながら分析したものである。
■ 同地域を代表する民俗芸能として研究者や観光客によく知られている花祭りは、愛知県・静岡県・長野県の3県が接する地域のなかのいくつかの集落で、11月から翌年3月の間の数日間を使って行なわれる、霜月神楽と総称される祭りの一種である。昭和以降、早川孝太郎・折口信夫・澁澤敬三らをはじめ多くの研究者の注目を集めてきた祭りであり、修験文化の形態を色濃く伝えるものとして、また中世にさかのぼる芸能史や宗教的世界観を再構成するうえでの貴重な事例とされてきたが、現在では開催地の過疎化や少子高齢化が進行しており、祭りの存続自体が危ぶまれている。本論文では、愛知県北設楽郡東栄町における参与観察と聞き取り、関連する史料等の検討から、明治以降の当該地域の政治経済史をまとめ、花祭りが経てきた様々な「改革」の分析をすることで演目及び運営形態の歴史的変遷を整理した。また、伝承者の条件についても、特定の家系に限定されてきた世襲制だけでなく、個人の身体能力や適性、継承への熱意などが重視されつつあることを指摘した。さらに、花祭りの現代的意義については、従来の定型的解釈であった再生儀礼や豊穣儀礼としての意義よりも、過疎化の過程で離散した血縁集団や地縁集団、さらに村落と都市、地域住民と観光客を新たに結びつけ、地域振興の契機を提供する文化資源としての側面に見出した。
■ 本発表では、本論文の上記内容をふまえ、明治時代以降に行なわれた花祭りの「改革」について報告するとともに、こうした「改革」の必要性から示唆される花祭りの現代的意義を中心に紹介する。(2009.5.2受理)

 

以上